狼と香辛料 Side Colors XX 「狼と松本人志」 1

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伊月遊 @ituki_yu

狼と香辛料 Side Colors XX 「狼と松本人志」

2014-09-13 18:42:54
伊月遊 @ituki_yu

がたごとと荷車が揺れる。 涼やかに吹く風と、澄んだ空に延びるいわし雲は、秋の到来を告げていた。 ゆるやかな隆起が続くなだらかな草原の真ん中に、土を踏み固めた道が一筋。 そこを一台の荷馬車が走っている。 荷馬車の御者台には二人の人影。一人は男であり、もう一人は女であった。

2014-09-13 18:46:12
伊月遊 @ituki_yu

二人ともまだ若い。 男は二十台の半ばに差し掛かった頃だろうか、顎に無精ひげを生やした銀髪の青年である。 女はまだ若く、そして美しい娘である。腰まで伸ばした栗色の長髪が、日の光で鈍く輝いていた。 若い娘は端正な顔を眠そうに歪め、大きくあくびをする。

2014-09-13 18:51:40
伊月遊 @ituki_yu

「のぅ、ぬし様よ。次の街へはまだ着かぬのかや」 目をこすりながら気だるげに言うと、隣に座る男はため息をつく。 「何度も言ってるだろう、ホロ。あと半日は掛かるって」 「分かっておる。分かっておるが、こうも退屈じゃと文句の一つも言いたくなろうが」

2014-09-13 18:55:26
伊月遊 @ituki_yu

ホロと呼ばれた娘の声に混じる多少の棘。それを受けて男は「ふむ」と顎を右手で軽く撫でながら思案する。 少しの間視線は宙を舞い、それから男はホロを見た。 「そういえばこの荷車に今、何を積んでいるか知っているか」 「知っておるも何も、買う所はわっちも一緒に見ておったわ」

2014-09-13 19:00:44
伊月遊 @ituki_yu

「全く、何故あんな物を大量に仕入れておるのか」と、ホロは半ばうんざりとした表情で背後に視線をやる。 視線の先には布が掛けられ紐で縛られた、なにやら堆く積まれた物。 周りから見えないように布で覆いをしているが、あの中には白っぽい岩のような固まりがある。 岩塩である。

2014-09-13 19:05:13
伊月遊 @ituki_yu

「この先の街ではこの季節、そいつを多く使うんだ。主に、『魚』に」 さり気なく、しかし多少強調するように、後ろの語勢を少し強める男。 膝掛けの下がもぞりと動く。 それを感じながら、男は続ける。

2014-09-13 19:09:41
伊月遊 @ituki_yu

「この先のネムノルの街では昔から漁業が盛んでな。特にこの季節、秋口の入りでは、鮭、とかがな」 「ほう、鮭」 素っ気のない返事。それと反比例するように、膝掛けは更にゆさゆさと動き出す。

2014-09-13 19:14:42
伊月遊 @ituki_yu

「そうだ。この辺りの鮭は西方のレーム海からの出戻りでな、川を遡ってきた鮭は脂も程よく身も締まり、それはもう絶品らしい。トロリとした脂は甘みさえあると言う」 「それにあの、岩塩を?」 「そうだ、炭火で焼いた鮭に、あの岩塩を細かく砕いて振り掛けて、豪快にかぶりつく。名物料理の一つだ」

2014-09-13 19:19:09
伊月遊 @ituki_yu

指を立てて講釈めいた口調で男が言うと、「ほぁあ」と感嘆の声を上げながらホロは目を細める。 いよいよ我慢できずにホロは男の両肩に手をやり激しく揺らしはじめた。 「早よう、早よう行こうぞ!」 「おいおい、見えてるぞ、尻尾」 と、男は笑いながらさっきまで膝掛けのあった場所を指指す。

2014-09-13 19:23:23
伊月遊 @ituki_yu

膝掛けは既に払いのけられ、代わりにパタパタとせわしなく動き続ける栗色の尻尾。 ふさふさとした毛並みのそれは、紛れもなく、目の前のホロという少女から生えているものであった。 彼女には尻尾があり、獣の耳がある。 もっと言えば彼女は人ではなく、麦を司る狼の化身である。

2014-09-13 19:27:29
伊月遊 @ituki_yu

とある事情で共に旅をする事となった彼女は、かつては賢狼という名で、小さな村の神として崇められる存在だった。 その賢狼様が今、自分の目の前で目を輝かせながら文字通り尻尾を振っている様を見ると、思わず笑みがこぼれてしまう男なのであった。

2014-09-13 19:31:47
伊月遊 @ituki_yu

「笑っている場合ではない、早よう行かんと鮭が全て売り切れてしまうやもしれん!ええい、何をしておるか!」 「流石にそれは無いだろう」 「無いとはどうして言えようか。人間はみな強欲じゃからな」 「ならば余計に大丈夫だ」 「む、何故じゃ?」 疑問符を浮かべる少女に、男はニヤリと笑う。

2014-09-13 19:35:57
伊月遊 @ituki_yu

「この世で一番強欲なのは商人だからさ。そんな強欲な人間が売り切れなんて事態を招く筈がない。そんな事をしたら折角の儲けをみすみす逃してしまうだろう?」 「ふむ、それ程に美味い鮭であれば、商人が一人で全て食うてしまうやもしれんぞ」 「商人に金貨以上のご馳走は無いよ、ホロ」

2014-09-13 19:39:58
伊月遊 @ituki_yu

「それもそうじゃの」と呆れた様にホロは息を吐く。 そしてすぐに、悪戯めいた笑みを浮かべて、こう言うのだった。 「しかし、おかしいのう。商人にはもう一つ大好物があったように思えるがの」 「のう」と流し目で話しかけるホロ。

2014-09-13 19:44:14
伊月遊 @ituki_yu

嫌な予感を覚えながら、その少女の問いをそのまま返す。 「大好物?」 「たわけ、わっちのような見目麗しい娘でありんす。ほれ、ぬし様の大好物であろ?」 「む……」 嫌な予感は的中するものだ。特にこの狼の問いかけには、いつもである。

2014-09-13 19:48:59
伊月遊 @ituki_yu

「のう、ぬし様や。昔こんな事があっての」 遠い目をして語り出すホロ。しかし尻尾だけは、はたはたと左右に揺れ動いている。 「その日わっちは幸運じゃった。人間の打ち捨てた、食いきれんほどの食い物を見つけたんじゃ」 「ほう、それでどうなった」

2014-09-13 19:53:14
伊月遊 @ituki_yu

既に話の帰結するところが薄々分かってきたが、仕方なく相打ちを打つ男。 それを知ってか知らずか、ホロの声は弾んでいく。 「まあ恐らくうっかり取り落としたか、あるいは難破船の漂流物であろうな。古ぼけた木箱で、中には大量の果物よ。わっちらは夢中でそれらを食い漁った」 「それで?」

2014-09-13 19:57:36
伊月遊 @ituki_yu

「気がついたら木箱の中にはたった二つしか果物は無くなっておった。わっちらはわっちを含めて三匹。しかも残った果物はどれもわっちの大好物ときたものじゃ」 「ほう。まあ食い意地の張ったお前のことだ、どうせその果物を独り占めでもしようとしたんだろ」

2014-09-13 20:02:00
伊月遊 @ituki_yu

「たわけが、狼がその様な事はせぬ。わっちはそこで、一つの提案をした。『あそこの木からそこの木まで駆け、最も早かった者が全てを取る』とな。どうじゃ、正々堂々じゃろ?」 それもやはり結局は勝負にかこつけて独り占めしようとしている事に代わりは無いのだが。

2014-09-13 20:06:02
伊月遊 @ituki_yu

しかしそれを指摘するほど野暮ではない。男は素直に頷く。 「それでどうなった」と聞くと、ホロはガックリと肩を落とす。 「……わっちともう一匹の雄狼が勝負に夢中になっておる内に、最後の一匹がこっそり両方食ってもうた」 我慢できず、思わず吹き出す男。

2014-09-13 20:10:19
伊月遊 @ituki_yu

しかしホロはそれを気にした風でも無く、男の方を見やる。 その理由を男は知っていた。 「ぬし様よ、この様に欲張っては最後は大損をしてしまいんす。二兎追う者は二兎を得ず、じゃ」 「だから商人の大好物である所の金貨は諦めて、もう一つの大好物であるお前を満足させろ、とこういう訳だな?」

2014-09-13 20:14:31
伊月遊 @ituki_yu

「察しが良い雄は嫌いじゃありんせん。ほれ、ぬし様がその懐の紐を緩めねばわっちがレーム海の鮭の様に『出戻って』しまうやもしれんぞ」 「分かった分かった。街に着いたら奢ってやる。ただし食い過ぎるなよ」 根負けした様に両手を広げ溜め息をつく男。その姿に、ホロは嬉しそうに笑うのだった。

2014-09-13 20:18:43
伊月遊 @ituki_yu

と、おもむろに姿勢を正し、尻尾の上に膝掛けを被せるホロ。 尻尾が完全に見えなくなったのを確認してから、ホロはフードを目深に被る。 「人か?」 「運がいい奴じゃの」

2014-09-13 20:23:01