50年代、60年代に忘れられたもの

50年代の新劇を起点に、文化一般について考えます。 大衆文化というローカルチャーは、どうしてハイカルチャーに抵抗したのか。いや、むしろ抵抗という歴史的必然こそが本末転倒なのか。 新劇における型の変化について。 原始主義は「自然」か。
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king-biscuit @kingbiscuitSIU

敗戦後にゃ、これからは「文化国家」をめざす、てなスローガンが本気で掲げられ、その後も「非武装中立」なんてお花畑が本気で信じられるようになってたのも大きくはその敗戦後の状況の「はじめの一歩」の刷り込みが尾を曳いたところはあったわけで。でも、その「文化」の中身は漠然としてたんだが。

2014-11-02 22:27:43
ひびのけい @hbnk

50年代の新劇も、バレエも、クラシック音楽も、熱心で広汎な支持を得て、じつに「中身」があり漠然とはしてなかった。万一あの文化風土が存続していれば(地方公共文化の研究者が夢見るような)気持ち悪いほど清潔で健全な高級文化が花開いたはずだ。何かが間違ったわけではないが今が必然ではない。

2014-11-02 22:40:14
ひびのけい @hbnk

50年代の高級文化が続かなかった一つの理由は、60年代以降のアメリカ由来の文化が性欲の発露を許したから。工員が労演主催の新劇公演を見に行くなんて女の子と仲良くなりたいにきまってるのだが、それを言わずに新劇は素晴らしい、と言わざるを得ない雰囲気を作ったところに「文化」は存在した。

2014-11-02 22:59:41
ひびのけい @hbnk

高級文化はやせ我慢、何かの断念の上に花開くので、それを「性を抑圧してる不自由な文化」と見るのは一方的で愚かな見方。チュチュ着たバレリーナはストリッパーの代わりでは決してない。性の快楽ではない、断念を持続する果てに得られる快楽があることは、60年代大衆文化のせいでほぼ忘れられた。

2014-11-02 23:05:35
ひびのけい @hbnk

この部分、十分に考え詰められてないのですが「ハイに対するロウの反発が歴史の必然である」という歴史観そのものが、50年代から60年代にかけて起こった「ハイに対するロウの反発」によって作られたのではないかと。その頃から一気に大衆文化の見直しが進みますよね。@hana_otoko

2014-11-02 23:13:20
花男 @hana_otoko

@hbnk 全く詳しくないのに言及するなど無謀な話で恐縮ですが、高級文化のうち、特に戦前〜戦後の演劇への熱情は何だったのだろうと思うのです。あの熱がなぜ消えてしまったのか、またどこへ行ってしまったのか大変不思議に思っています。

2014-11-02 23:27:50
ひびのけい @hbnk

戦前の新劇については、築地小劇場の観客数からわかる通り、インテリたちが過大に宣伝しただけです。ただ戦後の新劇についてはご指摘のとおり、なぜあれほど広汎な層が支持したのにその熱が消えてしまったのか。民主党政権の支持とその対応と少し似てると思ってます。@hana_otoko

2014-11-02 23:30:10
ひびのけい @hbnk

一言で言えば自らの人気を分析せずに所与とみなしたゆえ対応を誤った。とくに新劇の俳優の質の高さは「型」の演技に支えられていたのに、リアリズムを強調し台詞廻しを工夫しなかった。また戦前から自前で育てた劇作家たちを厚遇せずテレビ映画に行かせてしまったなど。 @hana_otoko

2014-11-02 23:33:16
花男 @hana_otoko

@hbnk レスありがとうございます。戦後の衰退は演者側の「怠慢」が大きな原因ということですね。大衆文化が変化するなかで「型」の持っていた価値が暴落したともいえるでしょうか(新派などを見ていると大変もったいない事だと思います)。

2014-11-02 23:42:17
ひびのけい @hbnk

私はそう思いますが、新劇人は自分たちのせいではなく大衆や社会が変化したせいだ、と言うと思います。「型」が衰退したのは、ルソー「自然に帰れ」に端を発する原始主義(その変形として性欲万能主義があるわけです)のせいだと思ってます。自然が正しく人工は間違ってる。@hana_otoko

2014-11-02 23:46:07
ひびのけい @hbnk

ルソーの告白録の赤裸々な性欲告白は、そっちのほうが自然だと思ってたからで、「我慢せずに性欲解放しようぜ、ヒャッホー」文化はあの時芽生えたのだと思ってます。18世紀ヨーロッパ文化の洗練はやせ我慢の極致の上に成り立ったのにルソー一人で瓦解させてしまったw @hana_otoko

2014-11-02 23:56:52