エウジェニオ・コセリウ『言語変化という問題』読書メモ集
- arishima_takeo
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言語のばあい、「結果」は同時にそのまま「能力」、すなわちその後の活動のための条件である。かりに結果が「最終的」なものだとすれば、それは死語のばあいだろう。しかし、言語が言語として機能し続けてゆく限り、結果はどんなにしても「最終的」とはならない。byコセリウ『言語変化という問題』
2014-12-02 11:59:11「言語学の領域において、ソシュールは――デュルケムの名は一度として『講義』に登場しないにもかかわらず――デュルケムの社会的事実なる教説を受け入れて、その細部に至るまで追随している」(コセリウ『言語変化という問題』第二章)。「社会的事実」⇒「ラング」。マジか。これ面白いなー。
2014-12-04 19:41:12「言語」という以上、それは厳密には個人的ではない。厳密に個人的であるものは「言語」ではない。「他者と」話されない言語などというものは存在しないからである。byコセリウ『言語変化という問題』第二章
2014-12-04 19:45:29言語が変化するのは、それがまだできあがっていないからではなく、その活動によって絶えずできつつあるからにほかならない。別のことばで言えば、言語が変化するのは話されるからであり、それが話す行為の技術と様式としてのみ存在するからである。byコセリウ『言語変化という問題』第三章
2014-12-04 19:48:42実際のところ、ことばというものがまさに「他者に対する自らの表出」である以上、単に「ものを言うこと」が、すでに他者のためである。byコセリウ『言語変化という問題』第三章
2014-12-05 11:02:05「ソシュールにとって体系的とはもっぱら文法的という意味であり、「言語変化」とは、実際には「音変化」ということになる」(コセリウ『言語変化という問題』)。へぇー。
2014-12-05 14:08:54いわゆる「ラテン語」において、中性が失われたと言うのでは十分ではない。なぜなら、もはや中性と対立をなさない男性と女性は、古典ラテン語における男性と女性とに等しくないのである。生じているのは、単なる中性の消失ではなく、性の体系の変革である。byコセリウ『言語変化という問題』第七章
2014-12-05 14:11:08コセリウ『言語変化という問題』読了。ソシュールの共時態(体系)と通時態(変化)の対立を、研究者による単なる二視点と看破。通時を切り捨て共時言語学を取ったソシュールに反して、言語の本質は変化の過程(変わりつつある)にあることを主張する。変わらない前提っておかしいでしょ批判。
2014-12-05 14:20:56「必要なのはソシュールの通時態の否定である。純粋の通時態などというものは無意味である。それは言語史となるべきものである」(コセリウ)。しかし、コセリウにとって生成文法(チョムスキー)ってどういう評価だったんだろ。あれなんか変わらない前提の言語学に見えるが…。
2014-12-05 14:24:53あと、これは直感にすぎないが、コセリウの「うつりゆくこそことばなれ」論は時枝誠記の言語過程説と結構似た視点をもっているのではないか。反ソシュールという点でも相性いい気がする。
2014-12-05 14:28:52