日本の「自己責任」私論~ムラの他者に憑依するココロの旅
続)自意識の年輪が増えるほど、その方向(関心事)についての客観的状況把握が精密になり判断力が上がる。程ほどの「ハズカシイ」がバランスよく成長を促すが、「無力」の様な原因の場合、重大過ぎるとトラウマを伴う年輪になる。厳しい環境に生きる子どもは「早く大人になる」と良く言われる。(続
2015-02-03 15:38:37続)あまりに悲惨、また生存が危うい状況に直面すると、この「年輪」を何段階も飛ばした「状況を克服し成長した自分」を先に「作って」しまう、と言うのが「人格分裂」的な事が起こる理由かも、と。これは人格自体ではなく外に表現するペルソナ(仮面)で、次のパニックに備えて予防的に働くのではと。
2015-02-03 15:43:57続)話を戻すと、要するあれこれ知るなり人と会うなり、程々に何か「自分を恥じる」経験を繰り返すのが良さげですね、と言う、「言われれば当たり前」的な話に回帰。驚きは小さく、数は多いのが安全で確実。「めくってびっくり」な絵本や漫画にも結構こう言う機能があるのではと思っているところです。
2015-02-03 15:50:44「自撮りは神への罪」インドネシアで批判渦巻く 若者はどう対抗したのか(画像) huff.to/1x2dIPY ここで30台の作家と言うシアウー氏が指摘しているのは悉く「自意識」に関わるものだなあ、やはり。「自意識の過剰」と見た状態を「神への罪」と呼んでいる。(続
2015-02-03 17:16:03【New!】「自撮りは神への罪」インドネシアで批判渦巻く 若者はどう対抗したのか(画像) huff.to/1x3lVDp pic.twitter.com/l5QDB5OTef
2015-02-03 17:10:07続)宗教に関係なく、男性社会が女性に求める”美徳”と内容は変わらない。言わば社会の女性集団の中で、ある一人だけ”集団全体のバランスを損なうほどに”自意識を高める事を「社会(実は男たる自分)への脅威」と見なず。これは閉鎖的な集団が秩序を保つと言う意味では、確かに実効性があるだろう。
2015-02-03 17:22:33続)集団の中で一人だけ意識が高めになった人は、周りを見て「小利口」「ずるい」詐欺的行動を取れる状態になってしまう。その誘惑に負けて人を傷つければ正に「罪」。ただ現代社会は集団をもっと外に開いて様々なバッファを増やし、意識に差をある個々がそれぞれ住みやすくなる様務めるべきもの。
2015-02-03 17:27:57以降は、連想で「学校のいじめと道徳教育」への私見。
続)その意味では、明治以来閉鎖的な「軍事教練」を基本としたまま「体罰禁止」「保護者に気遣う」日本の義務教育のあり方も相当矛盾が。上から「自分を知る」恥をかかせる事が適切なレベルで出来ないなら、もっと自主的に何かを知るなり外に出るなりで「自分を知って」貰う装置となる必要がある。
2015-02-03 17:34:57続)言わば明治と変わらない閉鎖的教練棟、一種の牢獄でありながら、中では「誰も傷つけてはダメ」「みんなは自由」。状況と言葉の矛盾。みんな自由ならなぜ自分は今教室を出てはいけないのか。学校は子どもに拘束と言う重大な「強制」をしている。強制の意味を率直に説明しない事が心に矛盾を溜める。
2015-02-03 17:40:50続)「ここは牢獄だが、タテマエを守る姿勢を示せば他者より有利な位置に立て、自分は安全になる」。これが子どもに身に付く”知恵”。更に”ムラ的相互監視”が働くと「人を1ミリでも傷つけた者(道徳的タテマエへの小違反)」を「大悪」として指弾する事はむしろ「誇るべきつとめ」になってしまう。
2015-02-03 17:47:39続)人を「少しでも」傷つけてはいけない、と教えるほど、彼らは自他を裏返して「自分が少しでも傷ついただけで激怒(本人には正義の発露)」し、更に「全員が」この配慮の実行を「自分以外の他者全員」に求める。ムラ的相互監視原理に則るとそうなる。今聞く学校のいじめは、こう言う図式化も可能。
2015-02-03 17:54:23続)これはもう教育で「クレーマー」「在特会予備軍」を育てている様な。学校は子供に「あなたに強制している事」と言う”理不尽”の意味を説明して自分の「責任」を明らかにし、子どもにも「誰しも人を傷つけてしまう事はあるが、あなたはその責任を取る必要がある」と言う”理不尽”を伝えるべきだ。
2015-02-03 18:06:58続)この様に、「責任」は常に自分にある事を「責任を持って」教えた方が、子供は簡単に <「人を傷つけるなと言う指弾」と言うラベルの貼られた「人を傷つける集団圧力行為」> には加担しにくくなるのではないか。「指弾」する責任もまた「自分一人」にある、と言う事が伝われば。
2015-02-03 18:11:14続)学校のいじめは今の「世間」の綺麗な反映だ。大人も同じ様に学校に拘束すれば同じ行動を起こすだろう。刑務所で起こる様に。それに1ミリも気付かず「いじめ防止のため道徳教育で子供に道徳を”植え付ける”」などと言って憚らない総理や、トンデモ疑似科学に熱中する文科相がその監視塔にいる。
2015-02-03 18:20:40続)安倍総理が道徳教育で「道徳を植えつける」と言うならば、まず率先して「自分に」道徳を植え付ける”ようす”を子供に観察させるべき。又は「自分に」植え付けられた道徳の内容を子供に開陳。いずれもしないなら無関係な他人事として寝言を言っただけ。二度と教育について口を開くべきではない。
2015-02-03 18:24:49続)現在自民党が進めようとしている、学校システムの側の検討を伴わない付け焼刃、無教養な場当たりの極みと言うべき道徳改革教育案は、そのまま行われれば「次の在特会」を大量に発生させ得る素地ともなる。それは「政権にその気があれば」”親衛隊”ともなる。徹底した検証と方向修正が必要。(続
2015-02-03 18:29:21続)子どもは学校と教育者を「自分を拘束する社会の代表者」として徹底して観察する。それを「拘束した責任を取らない者」と見れば、自分も「無責任」でいいのだと賢明に学習する。教育は当人と社会の未来のために「子供を拘束している」。その重大性を認識し、重大な責任感を持って行われるべきだ。
2015-02-03 18:35:56学校も「みんななかよく」とか生徒に向けた標語をその生徒に書かせると言う、「学校から見れば責任回避」の前に、「学校の側の率直な言葉」を子供にに向けて掲げるべきかと。昔の学校にもあった。内容はともかく。今なら例えば校門に「今日も来てくれてありがとう/今日も一日お疲れ様でした」なんて。
2015-02-04 12:48:56続)基本。「義務教育」の義務とは、親の子供に対する義務。子供にとっては教育を受けるのは「権利」。だから半自動的に学校に行く事になる。子供に直接強制する根拠は無い。他所の子が学校に来てくれたのだから「ありがとう」くらいは礼としてどこかで言う事。失礼に慣れた子はまた礼を知る事が無い。
2015-02-04 13:04:55続)「ありがとう」がハズカシイなら「よく来てくれましたね」でも。ドラマや映画で見る様な昔の先生や外国人の先生は、よくそう言う言い方をしてました。言葉一つの印象の蓄積は人の心を大きく動かします。子どもには求めているはずの事。自分がまずやってみせるのが「教える」の始まり。
2015-02-04 13:14:18