佐賀戦国研究会による「五州太守・龍造寺隆信、その生涯」

佐賀の戦国史アカウント@sagasengokuによる連続ツィートをまとめさせていただきました。 肥前国佐賀に生きた戦国大名龍造寺隆信、その生涯をともに追ってみませんか? 関連まとめ:佐賀戦国研究会による「もうひとつの”西の関ヶ原”」「関ヶ原西軍敗北後の流れ」http://togetter.com/li/759200
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佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(23) 永禄8年(1565年)37歳。宿敵・神代勝利没。長良が跡を継ぐ。間を置かず長良の子供も没。悲嘆する長良隆信から、励ましと異心の無い旨誓紙が出される。ほっと安堵した長良、その翌日龍造寺軍の急襲を受け、家臣を身代わりに辛うじて筑前へ逃走。

2014-11-18 20:18:53
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(24) 永禄9年(1566年)38歳。山内(三瀬の山々)の手引きで再度、神代長良は旧領へ復帰。大友宗麟へ支援を請う。4月~5月佐賀平野で雨不足による稲苗の枯れが発生。怨恨にて神代は山側から龍造寺領へ水流をせき止め、龍造寺家老の納富勢と数度死闘。

2014-11-18 22:31:41
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(25) 永禄10年(1567年)39歳。筑前で立花山城を巡り毛利と大友が長期の攻防。隆信、唐津方面松浦党の波多鎮草野鎮永を誘降。怡土郡の原田了栄から親交の使者が到来。大友宗麟に警戒感募る。大友を共通の敵とし毛利・龍造寺間で連絡取った可能性。

2014-11-21 13:28:57
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(26) 永禄11年(1568年)40歳。前年、秋月種実休松の合戦で大友軍を夜襲で撃退。筑前立花山城は大友軍が制圧。のち大友が肥前へ侵攻し龍造寺を討伐する動向。9/22日付毛利元就の書状に「龍造寺が合力を求めて来ているが軽々に助勢しない」と有。

2014-11-23 22:10:26
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(27) 永禄12年(1569年)41歳。正月、大友宗麟、大号令を発し、戸次鑑連吉弘鑑理統幸祖父)、臼杵鑑速の三老を先陣にて豊後を出陣、筑後は高良山吉見岳へ本陣を構える。此処に四方の国人が参集し6万もの大軍となる。第一次龍造寺征伐、始まる。

2014-11-23 22:37:26
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(27-2) 永禄12年(1569年)41歳。大友軍、龍造寺本拠の村中城を包囲。隆信に危機迫る。直茂も兄信房と共に市内を転戦。局地戦多発も、豊前への毛利元就の侵攻によって大友・龍造寺間の講和(龍造寺から豊後府内へ人質を出す降参の形)。佐賀領内荒廃

2014-11-24 19:39:05
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(28) 元亀元年(1570年)42歳大友宗麟、再び龍造寺大征伐。早春以降、諸国に号令し大軍を動員して龍造寺隆信籠る村中城を包囲。局地戦の中8/20、鍋島直茂を隊長とし捨身の奇襲隊が払暁、大友本陣を狙い壊滅させ、大友連合に動揺と衝撃を与え講和。

2015-01-09 01:27:42
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(29) 元亀2年(1571年)43歳。寡兵で大友本陣を打破った龍造寺家の存在感が確固となり、近隣の国人が次々に降参。前多久氏を追い落とし、弟長信を多久梶峰城主に据える。宿敵の江上武種、及び神代長良と和睦。活発に近隣を配下に収めて行く。

2015-01-09 01:35:00
佐賀の戦国史 @sagasengoku

【訂正】(29) 元亀2年(1571年)43歳。【誤】前多久氏を追い落とし、→ 【正】龍造寺家を離反・大友方についた小田氏を追い落とし、/ 今山合戦の頃はすでに前多久氏は追放され、隆信は多久城に家臣の小田氏を配属していました。今山時裏切ったので後日攻め落としました。失礼しました

2015-02-17 22:42:21
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(30) 元亀3年(1572年)44歳。大友宗麟を背後に反龍造寺・少弐家再興運動をしていた少弐政興冬尚の子)を肥前から追放。東肥前に領国の基盤を固める。勝尾城の筑紫広門を降す。//同年 12月:武田VS徳川 三方ヶ原の戦い / 宇喜多秀家 生誕

2015-01-11 00:25:50
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(31) 天正元年(1573年)45歳。上松浦の草野鎮永が小城で反龍造寺一揆を扇動。制圧のため出陣の後、草野と同盟した獅子ヶ城の鶴田前を攻略。神代長良勢を動員かつ岸岳城の上松浦党盟主:波多鎮と軍事連携。西肥前平定に動く。12月には唐津へ布陣。

2015-01-17 23:39:51
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■龍造寺隆信の狂歌■天正二年正月早々。先手、鶴田・八並・神代・三瀬の諸氏(近年臣従した国人たち) ニ陣、鍋島信昌(直茂)三陣:旗本。瞬く間に鬼ヶ城の草野鎮永を攻め落とす。隆信一首詠う『正月の 一日二日のことなれば 草野を焼きて 鏡餅かな』 / (九州治乱記)

2015-01-17 23:49:32
寺村朋輝 @TERAMURA_Tomoki

@sagasengoku 隆信の狂歌、面白すぎです。唐津在住としては複雑な笑いを禁じ得ず。草野氏は現唐津平野を東西に分けて流れる松浦川東半を領有しており、由緒ある鏡神社、鏡山があり地名も鏡と呼ばれます。ちなみに本日、鏡地区消防団も含む消防出初式です。

2015-01-18 09:03:41
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(32) 天正2年(1574年)46歳。正月、上松浦・鬼ヶ城の草野鎮永を攻略。筑前糸島・高祖城の原田了栄が恭順。武雄の後藤貴明、帰順。隆信の三男、家信が後藤家の養子となる。長年の宿敵:須古城の平井経治を攻略。

2015-01-18 20:42:51
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(33) 天正3年(1575年)47歳。北肥前を平定。松浦隆信この頃に帰順。東肥前の横岳鎮貞馬場鑑周宗筑後守らが帰順。東肥前平定。諸氏の領地替えに着手。筑後へも侵出開始。隠居を意識し須古城を改修開始。西肥前を睨む。/ 同年:長篠の戦い

2015-01-24 22:38:21
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(34) 天正4年(1576年)48歳。正月、1万の大軍を催し須古城を出陣。先陣は鍋島信昌直茂)。藤津郡を攻略開始。佐賀城の総構えを構築開始。4月:伊万里へ侵攻。6月:波多氏ら松浦党が反旗・挙兵。龍造寺長信が多久から出陣・戦勝し降伏に追いこむ。

2015-01-25 22:29:21
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(35) 天正5年(1577年)49歳。下松浦に侵攻。波多鎮伊万里治有田盛山代貞を降す。冬、諫早の西郷純堯攻めに出陣。この時、帰属した肥前の諸将が多数集合し大軍に膨れ上る。徐々に島原半島方面へ侵攻。

2015-01-30 22:18:43
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(36) 天正6年(1578年)50歳。有馬攻めの為渡海、高来へ上陸。島原勢抵抗も敵わず、有馬鎮貴晴信)より起請文を以て恭順。隆信納得し人質を迎え、和平成る。鎮貴と対面、有馬家の姫を龍造寺政家の妻に迎える。同時に島原純豊も帰順→【★肥前統一★】

2015-01-31 22:13:10
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(37) 天正7年(1579年)51歳。肥前統一と同じ時期に耳川合戦で大友家大敗北。機敏に矛先を筑後・筑前へ転じ大友方諸将を降す。肥後へ駒を進め、城親冬和仁大膳亮が帰順。隈府城を攻め、赤星統家が降伏。急速に龍造寺の版図が拡大して行く。

2015-01-31 22:55:16
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(38) 天正8年(1580年)52歳隆信自ら筑前出陣。荒平城攻略。大友勢と攻防の後、戸次道雪と和睦協定。博多に在陣し、龍造寺信周を大将として豊前へ出兵。戦い無く豊前降参。佐賀に帰陣し、隠居を表明。息子・政家に家督を譲り、須古城へ移る。

2015-02-02 23:18:39
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(39) 天正9年(1581年)53歳。柳川・蒲池鎮並が水面下で島津へ内通した旨報告が到来。謀叛を防ぐため謀略で佐賀城下へ蒲池一族を招き歓待し、斬殺。筑後でも残党を殲滅するに及ぶ/ 肥後の諸将帰順【肥前・肥後・筑前・筑後・豊前 ★九州5国制覇★】

2015-02-03 22:20:06
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(40) 天正10年(1582年)54歳。蒲池家を滅ぼした事で筑後国が不安定となり、黒木家永田尻鑑種辺春紹真ら領主が次々と離反。南から島津、東から大友、北から龍造寺、九州の3勢力が筑後に駒を進め三つ巴の争乱となる。/ 同年6月、本能寺の変

2015-02-06 22:20:38
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(41) 天正11年(1583年)55歳龍造寺政家総大将に肥後へ侵攻。北上する島津軍と高瀬川(現・菊池川)を挟んで対峙。筑前の大名、秋月種実の調停で和睦。/ 異心有りとし赤星家の人質(嫡子14歳、姫8歳)及び高良山祝部の妻を磔刑。/有馬氏離反。

2015-02-08 22:24:51
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■★最終回(42ー1) 天正12年(1584年)56歳。島原半島。反旗を翻した有馬晴信と、渡海してきた島津軍。龍造寺方の島原純豊勢と大村勢が籠る浜ノ城を包囲。これを救援かつ有馬・島津に鉄槌を下すべく、肥前筑後の大軍を自ら率いて船団で有明海を渡航。

2015-02-10 00:19:00
佐賀の戦国史 @sagasengoku

■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■★最終回(42ー2) 天正12年(1584年)56歳。神代へ上陸。龍造寺の隊列の編成や軍勢の威容と気品、錬磨された様をフロイスは高く評価(LF日本史)。/ 浜手:江上家種(城原衆)、後藤家信(武雄衆)/山手:龍造寺政家鍋島直茂(筑後衆)/

2015-02-10 00:31:46