佐賀戦国研究会による「五州太守・龍造寺隆信、その生涯」

佐賀の戦国史アカウント@sagasengokuによる連続ツィートをまとめさせていただきました。 肥前国佐賀に生きた戦国大名龍造寺隆信、その生涯をともに追ってみませんか? 関連まとめ:佐賀戦国研究会による「もうひとつの”西の関ヶ原”」「関ヶ原西軍敗北後の流れ」http://togetter.com/li/759200
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■亨禄2年(1529年)2/15(新暦3/24)水ヶ江城東館・天神屋敷に生まれる。父:龍造寺周家、母:慶ぎん尼。幼名:長法師丸。/同年生まれの武将:宇喜多直家赤井直正本多重次/

2014-09-06 23:39:43
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■亨禄3年(1530年)2歳。西肥前の御屋形:少弐資元を討伐するため大内義隆軍(司令:杉 興連)が大軍で肥前へ侵攻。少弐家老、龍造寺家兼隆信の曽祖父)の奮戦、鍋島清久直茂の祖父)の奇襲の成功により大内軍を撃退する。(田手畷の戦い

2014-09-06 23:46:32
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■天文4年(1535年)7歳。曾祖父 龍造寺家兼長法師丸隆信)が「名僧の器」であると感じ、宝琳院へ出家させる。長法師丸は出家して、円月円月中納言)と名乗り、11年間、18歳まで僧として日々を送る。

2014-09-07 00:01:34
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■天文11年(1542年)14歳。主家少弐家の家老・馬場頼周らの計略により父・周家や祖父・家純ら龍造寺一門が一挙に謀殺される。この時、円月隆信)宝琳院にて僧籍。/ 鍋島直茂彦法師丸)4歳、徳川家康竹千代)この年に生誕. //

2014-09-07 20:13:58
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【訂正】④:龍造寺一門が一挙に謀殺される事件は、天文14年(1545年)17歳の時の誤記です。大変失礼致しました。天文11年(1542年)14歳(僧籍):この頃は少弐冬尚の重臣として龍造寺家が務めていた頃。同年、彦法師丸(のちの鍋島直茂)は千葉胤連から隠居領と家臣十数名を譲受。

2015-02-22 23:29:18
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■天文14年(1545年)17歳。主家の粛清を受け、筑後へ亡命していた龍造寺家兼(曾祖父)蒲池鑑盛宗雪)の援助を受けて佐賀・川副で挙兵。馬場頼周を討伐し龍造寺氏の勢力を復興。/ 関東→北条綱成の河越城を山内上杉・扇谷上杉・古河公方等連合が包囲。

2014-09-07 20:25:12
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■天文15年(1546年)18歳家兼(93歳)没。遺言により器量を見込まれた円月が還俗、水ヶ江龍造寺家を継ぐ。民部大輔胤信と改名。/ 同年、龍造寺家当主胤栄少弐冬尚に佐賀を追われ、筑前の杉隆満(大内家・筑前守護代)を頼る。

2014-09-08 23:32:18
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■天文16年(1547年)19歳大内義隆、龍造寺家当主胤栄を豊前守とし、肥前守護代として少弐討伐を下知。7月筑前、杉氏の加勢を得て、龍造寺胤栄胤信(隆信)、龍造寺党一丸となり神埼郡の勢福寺城を攻略。少弐冬尚を筑後へ追い落とす。

2014-09-08 23:43:55
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■天文17年(1548年)20歳。当主胤栄が若くして病没。跡継となる息子がいなかった為、家中会議の末、胤栄の妻と胤信を婚姻させて、本家村中龍造寺と分家を合併相続させる事に。程なく大内義隆の偏諱を受け隆胤、次いで隆信と改名。龍造寺の惣領として立つ。

2014-09-08 23:57:52
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■天文19年(1550年)22歳大内義隆より山城守を敷奏され、偏諱を受け、隆胤と名乗り、程なく隆信と改名。/ 同年2月、豊後大友家で二階崩れの変。当主大友義鑑、家臣に襲撃され重傷を負う。2日後に死去。嫡子・義鎮(後の宗麟)、家督を掌握。

2014-09-10 23:04:37
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■天文20年(1551年)23歳。後援者・大内義隆陶晴賢の謀叛で死す。親大内派の隆信の動揺を突き、親大友派の一門、龍造寺鑑兼や家臣土橋栄益らが近隣国人と共に反乱。村中城・水ヶ江城大軍に包囲され10月25日夜、隆信降伏。蒲池氏を頼り筑後へ亡命。

2014-09-10 23:18:15
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■天文21年(1552年)24歳。佐賀奪還のため、鴨打胤忠の支援を受け筑後を出立、船で有明海を渡ろうとするも暴風で、杵島郡の柳津へ漂着。有馬勢または小田勢襲撃の危険のため、筑後へ戻る。

2014-09-11 22:50:15
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■天文22年(1553年)25歳蒲池鑑盛宗雪)の支援を受け佐賀・川副へ上陸。威徳寺で挙兵し土橋栄益を誅す。村中城に復帰する。弟長信を水ヶ江城主とする。/鍋島直茂16歳。小田氏の拠る小曲城攻めで初陣を飾る。この頃隆信の近習となるか。

2014-09-16 20:49:21
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■天文23年(1554年)26歳。(東)高木鑑房、(西)高木胤秀を攻略。佐賀市近郊の制圧に動く。/  1月: 大友宗麟が将軍・足利義輝に鉄砲を進呈  / 11月: 大友宗麟が叔父の菊池義武を殺害。

2014-09-16 21:35:17
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■天文24年(1555年)27歳少弐冬尚再起を図り綾部城入城。近隣国人の加勢を得るも隆信に攻められ落城。冬尚、筑後に落ちる。隆信は少弐方の江上・綾部・姉川・宗・横岳・犬塚と抗争。/ 同年:弘治元年。芦刈の徳島氏を降す。

2014-09-26 00:51:43
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■弘治2年(1556年)28歳。母、慶ぎん尼(48歳)鍋島清房へ再嫁。おしかけ女房伝説。龍造寺家と鍋島家の縁を深める。隆信の嫡男(のちの政家)生まれる。/同年: 藤堂高虎筑紫広門生まれる/ 斎藤道三死去/ 毛利元就が尼子氏から石見銀山を奪取

2014-09-27 01:28:32
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■弘治3年(1557年)29歳。八戸城攻略。八戸氏は隆信の姉が嫁いだが事有るごとに隆信と抗争。八戸領平定し後、龍造寺七城の一つに数えられる。/ 同年、鉄布峠(かなしきとうげ)の合戦:宿敵、神代勝利と合戦も敗北。家老小川信安、討死の悲報。

2014-10-02 00:33:24
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■永禄元年(1558年)30歳。姉川城に布陣。少弐冬尚を擁する江上武種神代勝利連合軍を攻める。長者林の戦い。近年臣従した宿敵、小田政光の窮地を救わず見殺しにする。わずか数日後急旋回し、小田氏の小曲城(蓮池城)を襲撃。小田領を制圧する。

2014-10-07 09:15:22
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■永禄二年(1559年)31歳。去年12月に宿敵、少弐・江上・神代と和平。血判の起請文を交わす。1月明けて早々少弐・江上氏の勢福寺城を不意討ち包囲。油断していた敵は降伏、少弐冬尚は(東)千葉胤頼を頼り抵抗するも敗北。江上を頼るも拒絶され、自刃。

2014-10-10 22:26:51
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■少弐冬尚■『(永禄二年)11日終に生害せられけり。生年三十三なり。法名安心本海と号す。昔右大臣頼朝公の時、彼の冬尚の先祖武藤小次郎資頼、鎮西へ下向し太宰少弐に任じて以来、今の少弐冬尚に至って既に十三代、星霜三百七十余年にして当家衰亡しけるこそ歎はしけれ。』(九州治乱記)

2014-10-10 22:34:30
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■永禄4年(1561年)33歳。近隣4郡を支配下に置く。宿敵・神代勝利へ決戦を申し込む。川上にて両者決戦し、勝利。/ 同年8月、木下藤吉郎おねと結婚。9月、武田対上杉の川中島の戦い(第四次)/同年 井伊直政福島正則吉川広家ら生まれる

2014-10-14 22:18:14
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■永禄5年(1562年)34歳。東肥前の支配権を確立。滅亡した少弐家の少弐政興が彷徨い生きていた所、大友宗麟が少弐家再興(龍造寺潰し)を画策し、松浦党の波多鎮と、高来(長崎県)の有馬仙岩に使者を立て連携を組む。3月には有馬勢の先陣が杵島へ侵攻。

2014-10-25 22:54:14
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(21) 永禄6年(1563年)35歳大友宗麟の呼びかけに応し、肥前制覇を狙う島原の有馬仙岩、西肥前連合の大軍を率い水陸から佐賀へ侵攻。丹坂峠の戦い。(にさかとうげの戦い)牛津川を挟んで長期戦化。結果、龍造寺軍勝利し、西肥前へ駒を進める契機に。

2014-11-10 16:34:50
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(22) 永禄7年(1564年)36歳。永禄6年中、丹坂峠合戦勝利後、迅速に多久城を攻略し須古城の平井経治へ攻め掛かるが知勇兼備の武将、白兵戦で龍造寺側が潰走。永禄7年、6千騎で再び攻め挑むが、平井の巧みな伏兵策に嵌り激戦、停滞。講和を結び退却。

2014-11-10 16:58:08
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■五州太守・龍造寺隆信、その生涯■(22-2) 永禄7年(1564年)36歳。平井氏と講和後すぐ西から東へ移動、神埼~三養基の反対勢力を攻めに掛かるが、大友宗麟が東肥前や筑後の国人に結束を呼びかけ、手火矢や鳥銃など物資支援も行い防戦を導く。龍造寺軍、攻めあぐね佐賀へ退却。

2014-11-10 17:18:28