- quiriu_pino
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@HougenXo1969 そうなんですよ。あの手の話はなぜ守護やその他大名層ばかりになるのか、不思議でなりません。奉公衆や奉行人、国人層が毎回抜け落ちてしまいます。
2015-03-14 23:37:37@rokurohei_XI でしょ!関東管領だってどこぞの守護になってるのに鎌倉にいるのをどう表現するか?政所・問注所職員をどう表現するか?を同様に念頭に置かなければならない問題かと。鎌倉時代は「都市御家人」なる表現もあるけど、室町期ではどうするか、という問題ですよねぇ。
2015-03-14 23:42:45@HougenXo1969 禅秀の乱で鎌倉が戦場になったのも、守護・大名以外にもあるていどの数が武士が「当参」してたからですし、儀礼や「面付銭」徴収なんかで在鎌倉武士が鎌倉府の権力基盤になったのは明らかですからね。そのへんをどう定義するかはひとつ大きな問題だと思っとります。
2015-03-15 00:33:20@rokurohei_XI ですねぇ~。また、「常住」と「出仕」をどの程度まで分けて考えるか、とか、突き詰めていくといろいろややこしい問題も出てきちゃうので、まずどのレベルから整理していくか、なんでしょうねぇ。頑張って下さい!w
2015-03-15 00:40:51「守護」在京制というのが先行しているのが遠因かも…。最近の研究は守護以外の武家の在京にも注目している(+「守護」と「大名」の区別)、守護の在京だけを切り離して論じるのは問題があるかもしれない。
2015-03-14 23:42:57両府関係のほかに、都鄙関係というのもあります。ってもう出てる? たしか史料に即した言い方だったと思うけど、鄙が鎌倉以外にも適用されるという難点も。
2015-03-14 23:40:37@rokurohei_XI 「都鄙関係」は、中央と「国」の関係を論じる時にとっておきたい気持ちがありますね… twitter.com/johmon_ramone/…
2015-03-14 23:45:39@pino_quincita @rokurohei_XI 「都鄙関係」は、それを誰がどこを対象に使っているのか?が重要ですよね。京都以外に使っているのか、鎌倉以外にも鄙と称している地域があるのか?その辺、じっくり調べていないので、なんとも言えませんが。
2015-03-15 00:01:17@HougenXo1969 @pino_quincita 「都」中心の味方かと思いきや、成氏も自ら「都鄙合体」と言っている(『戦国遺文古河公方編』183)わけで、東国側にも「鄙」の自覚はあるのですよね。難しや…。
2015-03-15 00:39:49@rokurohei_XI @pino_quincita そっか、自分トコでも言ってましたっけ!やっぱ憧れは京の都なんでしょうかw
2015-03-15 00:42:21@goza_u1 @pino_quincita 「両府和睦」とは言いませんものね。かたっぽはすでに「府」がないというのもありますが。応永・永享期の持氏と義持・義教の和睦は、「両府和睦」ということが多いような。
2015-03-15 00:43:26@HougenXo1969 「都鄙名誉悪党」という言い方があります。この鄙は当然鎌倉ではありません。
2015-03-15 00:51:10@HougenXo1969 そう思います。詳しい検証は必要ですが、都や都以外の場所でも有名な悪党であるというような意味でしょう。海賊山賊行為を指している可能性もあります。都も京都で良いのか、南都はどうかという問題もあります。
2015-03-15 01:04:49@HattoriJihoh あぁなるほど!どの時代に誰が何について言っているのか、などの文脈で考えないと明後日の方向に行っちゃいそうですね。
2015-03-15 01:10:27@HougenXo1969 同じ文言でも、いつ、誰が使うのかによって変わる可能性があります。東寺文書ならば都は京都で良いのでしょうが、東大寺文書でもそれでいいのかは、あくまで可能性の問題ですが、考える必要性だけはあると思います。普通に考えれば、京都で良いとは思いますが…
2015-03-15 01:15:14流れに乗ると、常陸烟田(鹿島だっけ?)氏は鎌倉奉公中に禅秀の乱にでくわして持氏に従ったと云々。 変なこと書くと無知がバレる…
2015-03-15 00:21:58