ドドンパNo.5
バイーア・ジャマイカ
ここは興味深いところで、僕の興味は複製音楽(レコード)にあるので、その点では、輪島さんと極めて対照的。ただ、輪島さんのバイーアと同じように、僕の場合もジャマイカでの体験が、場・祝祭・リズムといったっことへの興味の契機だった。 twitter.com/aotsukishobo/s…
2015-03-15 18:52:21しかし、ジャマイカ音楽の場合は、サウンド・システムという場で、レコードが回される。社交や祝祭の場に、生演奏は必要とされていなかった。かわりに、とてつもない音響を実現するスピーカーやアンプがあった。
2015-03-15 18:55:47レコードとは何だろう? それは音楽なのだろうか? 音楽とは違う、音響芸術と考えた方が良いのではないか?というようなことを考え出したのは、それゆえだった。26歳の時。
2015-03-15 18:58:27レコードで踊る場合でも社交や祝祭のありかたは基本的にはそれほど変わらない、ということもバイーアで知りました。でもスピーカーの爆音と100人のサンバヘギの太鼓が石畳に響き渡るのは音響体験として違うかな、とも思います。@kentarotakahash
2015-03-15 19:00:10輪島さんの本の冒頭部分に対して、僕がこういうことを言ったのも、そのへんの体験の差、あるいは音楽観の差ということがあるのかもしれない。 twitter.com/kentarotakahas…
2015-03-15 19:03:59冒頭にはこんな言葉がある。「音だけを集中的に聴き取る態度を要求する音楽」。それはシリアスな芸術音楽に向けられた言葉で、対置されるのが「踊る」という「参加的な態度」に支えられた音楽。しかし、ここで僕はもうエッ?となる。ダンス・ミュージックこそ、音だけを集中的に聴き取る音楽、だろと。
2015-03-12 09:28:22冒頭にはこんな言葉がある。「音だけを集中的に聴き取る態度を要求する音楽」。それはシリアスな芸術音楽に向けられた言葉で、対置されるのが「踊る」という「参加的な態度」に支えられた音楽。しかし、ここで僕はもうエッ?となる。ダンス・ミュージックこそ、音だけを集中的に聴き取る音楽、だろと。
輪島さんと僕では世代差が大きいとは思います。僕がジャマイカ行った時点(1982)では、まだクラブとかDJとかレコード掘る文化とかがポピュラー化する前でした。なので、衝撃も大きかった。輪島さんの世代ならば、そのへんを体験した上でのバイーアなのでしょうし。 @yskwjm
2015-03-15 19:09:10それは確かにそう思います。そもそもその時点で既に健太郎さんの本を読んでいたわけで。あと、ほんとにすごいサウンドシステムを体験してない、ということもあるかもしれません。@kentarotakahash
2015-03-15 19:12:47このへんも興味深いところ。「『大衆音楽』イコール『複製音楽』」ではないのはもちろん。レコードと音楽は違うもの、と考える僕も同じ立場。で、逆にレコードしか考証の頼りにしていないのに、それで大衆音楽史が語れるのか?と考える。 twitter.com/maido140b/stat…
2015-03-15 20:21:27輪島「ポピュラー音楽の研究者としては、録音技術が音楽を『誰でも聴ける商品』にしたことはしっかり評価したいんですね。ただ『大衆音楽』イコール『複製音楽』という見方は違うと思うんですよ」 江「うんうん」 pic.twitter.com/o9dH5GzOZy
2015-03-15 13:33:51これは、中村とうようさんのような先輩の音楽評論家に対して、思っていたことでもある>レコードしか考証の頼りにしていないのに、それで大衆音楽史が語れるのか? だから、一度、レコードの技術史とレコード化された音楽の歴史をきちんとやろう、というのが去年からの僕のサンレコ連載なのだった。
2015-03-15 20:24:27でも、面白いことに、レコード化された音楽の歴史をきちんとやろう、と考えると、レコード化されなかった音楽のことも考えねばいけなくなる。なので、サンレコ連載では、しばしば、レコードを残さなかった音楽家について、書いている。次々号くらいではトニー・ジャクソンのこともやる。
2015-03-15 20:28:20ぼくも授業では複製技術の文化的影響の話と個別の音楽実践(サンバとかラテンとかディスコとか)の文化史の話を半分ずつやってます。というか英語文献の購読ですが。記録が残らないものの歴史、というのは非常に難しいので、やはりレコードは強いなあと思いながら。@kentarotakahash
2015-03-15 20:33:05あ〜、僕も1982年には本当に凄いサウンドシステムは体験してないんです。QT @yskwjm それは確かにそう思います。そもそもその時点で既に健太郎さんの本を読んでいたわけで。あと、ほんとにすごいサウンドシステムを体験してない、ということもあるかも@kentarotakahash
2015-03-15 20:38:191982年はモンテゴベイだけだったので、体験としてはコンサートの方が凄かった。50組もレゲエ・アクト見て帰ってきた日本人なんて、それ以前にいなかったし。でも、ライヴ体験って見てない人にはどうにでも言える。検証不可能なものですから。 @yskwjm
2015-03-15 20:43:36それだけに、ジャマイカ行かなきゃ分からない、みたいな話になりがちで、そういう現地主義や現場主義はつまらない、と、ずっと思ってきたのです。その点、レコードは誰でも音源検証可能。だから、そこに何が聞き取れるかに徹底的にこだわる、という方向に向いたというのもあります。 @yskwjm
2015-03-15 20:46:14なるほど。検証可能性ということだと、ぼくが体験をナマで語るのを本の中では一応禁欲して(少なくともコントロールして)、基本的に文献資料に依拠するのと似たところがあるのでしょうか。音と文字はもちろん違うにせよ。@kentarotakahash
2015-03-15 20:47:55全く同意です。なにがしかの現地に行ってものすごい体験をすることと、現地に行かないとわからない、とパブリックに発言することは全く違いますよね。少なくともそれを論拠にしてもしょうがない。@kentarotakahash
2015-03-15 20:54:57あ、すいません。「全く同意」は前半です。音盤のニュートラル性についてはちょっと違う考えです。といってもうまく説明できないのですが。@kentarotakahash
2015-03-15 20:59:11僕は学問として音楽研究している訳ではなくて、ただ面白いこと書きたいだけなので、そもそも的なスタンスの違いがあると思いますが、最終的には、自分にはこう聞こえた、という体験にしがみつく、というのが僕の方法です。文献資料は(大好きですが)二次的な資料でしかないです。 @yskwjm
2015-03-15 20:59:45いや、僕もレコードの検証可能性には限りがあるという考えです。ニュートラルだとは思っていないです。そもそも、自分自身ですら、同じレコードを聞いた昨日の聴取体験と今日の聴取体験は異なりますし。 @yskwjm
2015-03-15 21:05:52