廣川洋一著『イソクラテスの修辞学校』を読んで。
- tomokazutomokaz
- 5476
- 7
- 0
- 1
περὶ οὐδενὸς ἀξίων ἀναξίαν σπουδὴν ποιουμένων(無益なことについて無益な努力をしている人々)。こんなにリズムがよく、みごとな頭韻をつけて話す人はイソクラテスにちがいない(『イソクラテスの修辞学校』p.195以下)。
2015-03-18 23:05:34『イソクラテスの修辞学校』第7章はイソクラテスとプラトンの対立をそれぞれの作品によって明らかにしている。二人は互いの作品を読んでいて、プラトンはゴルギアスなどに仮託してイソクラテスを批判し、それを読んだイソクラテスが自分の作品の中で反論しているのだ。
2015-03-18 23:51:14「プラトンはすべての弁論家たちの批判者であったが、ただこの人(イソクラテス)のみを称えた」(キケロ『弁論家』13,42)。『イソクラテスの修辞学校』p205の(Brut.13.42)は間違い。
2015-03-19 10:56:06「数学はまったく何の役にもたたず、また人間の生活に何ら寄与するところがない、と非難する人がいた」(アリストテレス『プロトレプティコス』)。これはイソクラテスのこと。アリストテレスのこの作品全体がイソクラテス批判として書かれた(『イソクラテスの修辞学校』p227)
2015-03-19 12:35:41「世のソフィストたちによる法律・国制論は現実の問題に対してまったく無力である」というイソクラテスの指摘は、『国家』と『法律』を書いたプラトンに対する非難とさげすみだった(『イソクラテスの修辞学校』p186)。
2015-03-19 12:52:28アリストテレスは『弁論術』の最初に、真実を人々に説得するにはプラトン流の厳密な知識に基づく証明ではだめで、常識に基づく証明を行う弁論術が必要だと言っている。この常識こそはcommonplaces であり、そのギリシャ語がκοινοι τοποι つまり「共通のトポス」なのだ。
2015-03-19 23:05:17アリストテレスは元々はプラトンと同様に弁論術をさげすんでいたが(失われたアリストテレスの対話編『グリュロス』)、「人々に共通の常識」に基づく弁論術の有用性に気づいて自ら弁論術の講義を始めた。それがいま現代に伝わる『修辞学(弁論術)』だ(『イソクラテスの修辞学校』p.224以下)。
2015-03-19 23:11:00キケロは『ブルータス』の中で「アリストテレスによれば、共通のトポスに基づく議論の仕方を始めたのはプロタゴラスである」と書いているが、そのアリストテレスの作品は『グリュロス』らしい。books.google.co.jp/books?id=wQCCb…
2015-03-19 23:21:17古代ギリシャにおけるフィロソフィーをめぐる闘いの勝者はプラトンではなくイソクラテスだった。イソクラテスの弁論術はプラトン哲学をしのいで学問として確固たる地位をしめ、それは古代ローマからルネサンスに至る教養・ヒューマニズムの主流となる(『イソクラテスの修辞学校』第8章)。
2015-03-20 13:18:31イソクラテスの弁論術に基づく教養理念は16世紀のイエズス会の中心的な教育理念となって19世紀に至るまでの近代ヨーロッパの高等教育を支配した。後にコギト哲学に開眼するまでのデカルトの教養を形成したのもイエズス会の学校で学んだ弁論術だった(『イソクラテスの修辞学校』p236)。
2015-03-20 13:34:24キケロ『弁論家について』第1巻230節「仮に君がプブリウス・ルティーリウスに代わって..弁論を行う」→「仮に君がプブリウス・ルティーリウスのために..弁論を行う」。高潔なルティーリウスは自分が訴えられた時に弁論術によらず嘆願もせずに素朴に真実を述べただけだったので裁判に負けた。
2015-03-20 23:51:18つづく231節冒頭「ローマ人で、執政官まで務めた人」は前節のルティーリウス。注にはないが、前92年に無実の罪で有罪になったらしい。彼の裁判の時の様子が、むかしアテネで裁判にかけられたソクラテスのように高慢だったという論旨。
2015-03-21 00:02:56「いろいろの蔵書を持ちいろいろな知識を貯え、多面的にものを考えて人格を高めるという理想、モンテーニュ、ロンサール、ゲーテ、その他大勢の人々が体現してみせた理想―この理想はペトラルカによって近代で初めて、そして確固として具現されたのである(西洋文学における古典の伝統、上p87)。
2015-03-21 13:00:31キケロの書簡集がペトラルカによって発見されたことは有名だが、彼か発見したのはアッティクスとクィントゥスとブルータスに宛てた書簡集だけで、縁者友人宛書簡集は知らなかった。縁者友人宛書簡集はその後彼の弟子サルターティによって発見された(『イソクラテスの修辞学校』p252と注)。
2015-03-21 13:24:52ペトラルカがキケロの『アッティクス宛書簡集』を発見したのは1345年、サリュターティが『縁者友人宛書簡集』を発見したのは1392年。だが、後者はこれが最初の発見でなく、半分くらいは既に知られていたらしい。 books.google.co.jp/books?id=qQT3A…
2015-03-21 19:39:49The Epistolae ad Familiares were completely unknown to Petrarch. (Sandys History of classical scholarship)は間違いか。
2015-03-21 19:52:09Pfeiffer:History of classical scholarship, emphasises that the evidence for Petrarch's knowledge of Epistulae ad familiares is inconclusive.
2015-03-21 20:33:31要するにプファイファーによれば、ペトラルカがキケロの『縁者友人宛書簡集』を知っていたかどうかは分からないということらしい。 books.google.co.jp/books?id=ZXRo7…
2015-03-21 20:38:21哲学者キケロしか知らなかったペトラルカがキケロの書簡のありのままの姿に落胆した話は岩波新書『キケロ』に出ていたが、その後ペトラルカはローマの政変を経験して政治に目覚め、書簡集に見た真のキケロの苦闘する姿に尊敬を抱くようになったらしい(『イソクラテスの修辞学校』p257以下)。
2015-03-21 22:33:23『イソクラテスの修辞学校』読了。かつてはプラトンの翻訳しかなかったため、ギリシャ哲学といえばプラトンだったが、実はイソクラテスという敵手があってのプラトンだったのだ。これを読めばプラトンの読み方も変わってくるし、幸い今ではイソクラテスの翻訳も出揃っている。
2015-03-21 23:29:48またキケロに『弁論家について』の最初と最後に出てくる弁論家像についてのややこしい議論の背景には、『イソクラテスの修辞学校』に描かれたプラトンとイソクラテスが対立しながら作り出した哲学思想の流れがあることも分かる。
2015-03-21 23:38:56