靖国問題考―慰霊の表象とその承認

慰霊の場が政争でその静謐を乱されてはならない。沖縄の慰霊式典のニュースは、私にそのことを思い出させた。 麻生太郎による論考「靖國に弥栄あれ」をヒントに、なぜ公人の靖國参拝が問題となるのかを検討する、書き散らし。
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ミトス@宮城 @mitos7

沖縄の追悼式でのヤジ、これはひどい。 #primenews #bsfuji pic.twitter.com/ZlcsGCOnLc

2015-06-23 20:14:05
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翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

慰霊の場に政治を持ち込むべきではない、という点では、僕は麻生先生のお考え(aso-taro.jp/lecture/talk/0… 「靖国にいやさかあれ」ー麻生太郎『自由と繁栄の弧』(幻冬舎文庫)所収)に賛成するものです。ただ、靖国と神道との分離が国民感情として理解されるかは疑問ですが。

2015-06-23 23:50:36
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

なんか短いなと思ったら『自由と繁栄の弧』に入ってるのはさっきの新聞投稿記事をベースにより詳しく書かれたもの(aso-taro.jp/lecture/talk/0…)の方なのね。こっちの方が、読み応えあります。外交に強いクリスチャンの日本人政治家が、靖国神社をどう捉えるか。

2015-06-23 23:59:22
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

欧米発祥の政教分離原則は「教会のやつら神の威光を建前に好き勝手やりやがって絶対殺す」っていうのが発端で、日本人の考える政教分離は「宗教団体とかいう胡散臭い奴ら絶対政治に関わらせないようにしような」だから、微妙に違ってる気がする。

2015-06-24 00:25:12
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

共通するのは「信仰の自由は基本的人権として尊重せねばならない社会において、特定の信仰に社会政治が特権を与えることは、人権尊重に反する」ってことで、従って(正負を問わず)特権付与になりかねない、国家/政治家の宗教法人への介入は一切慎むべきだ、ということ。

2015-06-24 00:33:43
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

ここで「死者への慰霊」は宗教を伴わなければならないのか、という疑問があらわれる。例えば、亡くなってしまった大好きなおじいちゃんおばあちゃんに想いを馳せたとき、合掌することで表されるのは「文化」か「信仰」か。判然としないのが、多くの人々の感覚ではなかろうか?

2015-06-24 00:37:45
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

抽象化すればどちらも「思い」であり、おじいちゃんおばあちゃんが、葬儀という宗教上のプロセスによって「仏」や「神」に(宗教上は)なったからといって、そこで表象されるのは、宗教上の「神仏」に対する信仰心ではなく、物故者という人への「思い」(感情や記憶)と見るべきである。

2015-06-24 00:42:22
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

日本における宗教は、自然現象への畏敬、日本神話からなる神の体系、仏教やキリスト教といった異教の伝来を経て、その時々にそれぞれの信仰が混和(例えば、本知垂迹)され、「可視化できない『思い』を理解し表現(=可視化)するツール」として浸透してきた。欧米ほど権力要素は強くなかっただろう。

2015-06-24 00:57:25
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

「死者への慰霊」が、人への「思い」の表象である以上、信仰(宗教)を伴う必要性は本来無いのだが、その「人への『思い』の表象」にあたって、表現ツールとして宗教が取り入れられ、慰霊は宗教的な儀式の体裁をとり、ゆえに宗教的信仰のあらわれと誤解されることとなった。

2015-06-24 01:00:16
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

ゆえに先の疑問に対する答えは、「文化」となろう。死者の慰霊にあたって、宗教的な儀式を取り入れ、結果として死者の慰霊が「信仰」に見えるのは、日本において、宗教は「思い」を可視化するツールの一つである、という「文化」の表れだからだ。(別に日本に限った話でもないが)

2015-06-24 01:10:57
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

死者への慰霊にあたって、ツールとしての宗教を利用する「文化」のある日本(の人々、その集合体としての国家)において、戦死者の慰霊の際に(明治政府によって)選択されたツールが、国家神道であり、それが「靖国神社」という慰霊のためのデバイスを作成した。

2015-06-24 01:16:57
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

明治政府が神道をチョイスし、国家神道としてよりシステム化していったのは、日本神話上神武以降脈々と受け継がれてきた(とされる)天皇を中心(君主)とした国家のすがたに、日本神話をもとに全国に普及していた神道との親和性を見出したからだろう。(あと徳川時代の仏教重視との決別アピールか)

2015-06-24 01:38:46
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

国家神道と神社非宗教論については出雲大社紫野教会の論稿(izumo-murasakino.jp/shinto-007.html)が参考になる。宗教は信仰ではなくツールである、という人々の認識を踏まえれば、国家神道(のデバイスである神社)を「非宗教」(=信仰を伴わないツール)としたのも当然の判断だ。

2015-06-24 01:44:17
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

ツールとしての国家神道(システム)とそれに連なる靖国神社(デバイス)、そして参拝という表現は、いずれも宗教というツールを用いる「文化」の表れで、宗派神道(=信仰の一)の神に対する「信仰」とは別個のものだと解すべきである。

2015-06-24 01:52:59
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

欧州における宗教は、国家(人民の共同体)とは別個の、神を頂点とする権力体(教会)として存在しており、絶対王政下で王権が、そして市民革命後の共和制下で人民が、それぞれ権力体としての教会から「独立」を勝ち得た。従って政教分離原則は、この「独立」の維持を当然のこととして示したのだった。

2015-06-24 02:05:10
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

この例外としてのイギリス(王より連なる国教会システム(宗教)と、「君臨すれども統治せず」という王から人民への、国家システム管理権(=政治)の移譲による「政教分離」)、アメリカ(独立による独自の政治権力体形成と、イギリス国教会(宗教)からの「独立」のためのカトリック利用) 省略

2015-06-24 02:12:39
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

明治政府にとって国家神道は尊皇思想によって成立してしまった脆弱な国家システムを、精神的な面において補強し、また戦没者慰霊や国家(国民全体)レベルでの「思い」の表象のためのツールであり、それらはすべて日本では「文化」の範疇に属するものとして、日本人には無意識のうちに承認されてきた。

2015-06-24 02:28:21
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

終戦によって明治政府以来の大日本帝国、つまり国家神道をツールとして採用する国家が崩壊し、人間宣言によって天皇は日本神話から切り離され、政教分離原則を含む、欧米の先進的な知の結晶たる日本国憲法によって再建された日本国は、国家神道をツールとして使わないこととなった。

2015-06-24 02:40:47
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

「文化」によって日本人から承認された、国民の「思い」を表象するツールとしての国家神道は、教派神道と同様に宗教、つまり信仰と誤認されたまま処分され、慰霊のためのデバイスである靖国神社は陸海軍省から離れ単立の宗教法人となった。麻生のいう戦没者慰霊の「民営化」である。

2015-06-24 02:45:56
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

「民営化」は日本国憲法が政教分離原則に基づき信仰の自由を保障している中で、国家神道が信仰としての宗教ではなく、国民の「思い」を表象するツールとして、信仰の埒外にあり「文化」の範疇に属することを、宗教は信仰だという「文化」を持つ欧米(GHQ)からは承認されなかった以上やむを得ない。

2015-06-24 02:55:54
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

メモ:アメリカ国家はカトリック(非-国教会キリスト教)を利用する際、権力体としてのカトリック教会ではなくあくまで神に対する信仰(in God we trust)として、権力体たる国教会から「独立」し、かつカトリック教会が権力体として並立することを回避した。(政治の宗教離脱)

2015-06-24 03:03:59
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

この考えに立てば欧米の人々にとって、宗教は信仰として、人民の集合意思たる国家政治からは切り離すべきであり、そして国家は信仰に対して個々人の自由を保障する以上に関与すべきでないという、政教分離原則が当然にあらわれ、国家が宗教をシステムとして利用することなど理解不能だろうといえる。

2015-06-24 03:09:33
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

国家が戦没者を慰霊するための、国家神道に代わるツールも、靖国神社に代わるデバイスもGHQは用意しなかった。日本国は戦没者慰霊式典や平和記念式典をツールに、平和記念公園や平和の礎、各地の忠霊塔をデバイスとせざるを得なかった。

2015-06-24 03:18:46
翠坂満月/藤 @Fuji_Midoryzaka

注意したいのは、戦没者慰霊に国家神道や靖国神社を使わないことにしたのは、あくまで日本国憲法(と日本国政府)であって、日本人はツールとしての国家神道とデバイスとしての靖国神社という認識を、無意識的に継続していたことである。変わったのは制度(憲法)であって、「文化」ではないからだ。

2015-06-24 03:34:26