G・H・ミード『精神・自我・社会』読書メモ集

G・H・ミード(George H. Mead)の『精神・自我・社会』(『デューイ=ミード著作集』第六巻、河村望訳、人間の科学新社、1995/Mind, Self, and Society)の読書メモをまとめました。
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荒木優太 @arishima_takeo

言語は、ジェスチャーという型の行為という観点から研究さるべきである。この行為のなかで、言語は、ある明確な言語になることなしに存在していたのである。byミード『精神・自我・社会』

2015-06-24 11:18:14
荒木優太 @arishima_takeo

われわれの注意は、選択的過程であると同時に組織的過程でもある。われわれがしようとすることに注意を向けているとき、われわれは継続する活動を提示する刺激の全群を選びだしている。byミード『精神・自我・社会』

2015-06-24 11:35:41
荒木優太 @arishima_takeo

有機体は外部から来る刺激によって役を演じる受動的な感覚の組合せではない。有機体は外部に行き、それが反応しようとするものを決定し、その世界を組織する。ある有機体はある事物を選び、他の有機体は他の事物を選ぶ。というのは、有機体は異なった仕方で行動するからである。byミード

2015-06-24 11:37:01
荒木優太 @arishima_takeo

諸個人は、コミュニケーション、あるいは異なった個人の精神の間の接触が可能になる以前に、社会過程の内部で本質的関係をもたなければならない。身体はそれ自体、自我ではない。身体は、それが社会的経験の脈絡のなかで精神を発展させたときのみ、自我になる。byミード『精神・自我・社会』

2015-06-24 15:28:49
荒木優太 @arishima_takeo

他の人の反応が呼び起こされ、彼の行動を統御する刺激になるところで、彼は自分自身の経験のなかに、他者の行為の意味をもつのである。これが、われわれが「思考」と名づけるものの一般的な機構である。byミード『精神・自我・社会』

2015-06-25 11:51:29
荒木優太 @arishima_takeo

もし牛のような草を食べる動物が世界に現われるとすれば、草が食物になる。この対象は、すなわち食物としての草は以前には存在しなかった。牛の出現が、新しい対象をもたらしたのである。その意味で、有機体は、以前には存在しなかった対象の全系列の出現に責任がある。byミード『精神・自我・社会』

2015-06-25 17:10:23
荒木優太 @arishima_takeo

「有機体はある意味で、その環境にたいして責任がある」(ミード)。逆にサルトルっぽい(別に逆じゃないけど)。

2015-06-25 17:12:13
荒木優太 @arishima_takeo

しかし、ミードの牛の話は、レヴィナスのいう「糧」の話にも発展しそうな重要な論点だよな。食べていいものとはなにか? 環境とは組織化された環境。オートポイエーシスでも(たぶんルーマンでも)、先行する環境のなかに有機体が生まれました、みたいな単純な図式だと駄目だと教えている。

2015-06-25 17:18:01
荒木優太 @arishima_takeo

われわれの接近方法によれば、心性は単に、有機体が他の有機体及び自分自身にたいして、意味を指摘できるときにのみ発生する。これが、精神が現われる、または、そう言いたければ、精神が創発する地点である。byミード『精神・自我・社会』

2015-06-25 17:20:40
荒木優太 @arishima_takeo

自我が一度生じると、自我はある意味で、自分自身のために、その社会的経験を提供し、こうして、われわれは絶対的に孤独な自我を考えることができるようになる。しかし、社会的経験の外部に発生する自我を考えることは、不可能である。byミード『精神・自我・社会』

2015-06-25 17:29:59
荒木優太 @arishima_takeo

「社会過程それ自体が、自我の出現に責任がある。このような類型の経験を離れて、社会過程は自我としてそこに存在しない」(ミード)。名言だな。もしかしてシモンドンじゃなくってミード読んでりゃいいんじゃないか? これって心的個体化即集団的個体化の問題だろ。

2015-06-25 17:34:58
荒木優太 @arishima_takeo

なにかを言っている人は、他者に言っていることを自分自身に言っている。さもなければ、彼は、自分がなにについて話しているかが分からなくなる。byミード『精神・自我・社会』

2015-06-25 17:48:26
荒木優太 @arishima_takeo

個人に彼の自我の統一を与える組織化された共同体または社会集団は、「一般化された他者」と呼ばれるだろう。一般化された他者の態度は、共同体全体の態度である。byミード『精神・自我・社会』

2015-06-25 18:25:29
荒木優太 @arishima_takeo

人が人格をもつのは、彼が共同体に属するからであり、彼がその共同体の諸制度を彼自身の行為のなかに引き継ぐからである。byミード『精神・自我・社会』

2015-06-25 18:31:58
荒木優太 @arishima_takeo

長尾真理「一般化された他者と環境としての他者――精神分析的視点は、「社会的自我論」に何をもたらすのか」(PDF)koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/module…

2015-06-25 18:44:23
荒木優太 @arishima_takeo

自我は実体ではなく、ジェスチャー会話が有機的個体のなかに内面化された過程なのである。この過程は、それ自体では存在せず、個人がその部分である社会的組織全体の単なる局面なのである。byミード『精神・自我・社会』

2015-06-25 20:15:49
荒木優太 @arishima_takeo

自我は、まず最初に存在し、次に他者との関係に入っていくなにかではなく、社会的潮流のなかのいわば渦巻きであり、したがって依然として社会的潮流の一部なのである。byミード『精神・自我・社会』

2015-06-25 20:20:27
荒木優太 @arishima_takeo

われわれが、自分のジェスチャーが他者のなかに呼び起こす反応を、われわれ自身のなかにより多く呼び起こせばそれだけ、われわれは他者をより理解するようになるのである。byミード『精神・自我・社会』

2015-06-26 17:12:40
荒木優太 @arishima_takeo

ある人がいかに他の人を助けるべきかは、極めて複雑な企てである。他者にたいして普遍的援助を与えようとする人は、彼自身を普遍的厄介者と見倣すことになる。常に他の誰かを助けようとしている人ほど、不幸な人はいないのである。byミード『精神・自我・社会』

2015-06-26 17:51:55
荒木優太 @arishima_takeo

「諸君は、純粋な抽象物として、言葉を伝えることはできない。諸君は不可避的にある程度、言葉の背後にある生活をも伝える」(ミード)。言葉を下部で支えるここ具体の生活。反ソシュールとして三浦つとむが言いたかったことも、そういうことなんじゃないかと思う。

2015-06-26 18:19:42
荒木優太 @arishima_takeo

「アメリカ人は海外旅行をして、アメリカのホテルの方がよいという感覚だけをもって帰るのである」(ミード『精神・自我・社会』)。へぇー…(さすがにバイアスかけすぎだろ)。

2015-06-26 18:50:51
荒木優太 @arishima_takeo

もし諸個人が相互にはっきり区別されていて、相互に同一化できず、もし共通の基盤が存在しないのなら、どちらの側にも現存する全体的自我は存在しえない。byミード『精神・自我・社会』

2015-06-26 18:52:46
荒木優太 @arishima_takeo

著述家や芸術家は、自分の聴衆を持たなればならない。それは後世に属する聴衆かもしれないが、聴衆は存在しなければならない。人は、他者によって認められた、自らの個人的創造物のなかにしか、自分の自我を見いだせないのである。byミード『精神・自我・社会』

2015-06-26 20:01:23