歴史学をめぐる議論
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saisenreiha
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最近、○○時代××時代と分断されてたいた教科書的な歴史が「流れ」でわかるようになってきた。歴史教科書も流れで読ませるようにすればもっと理解が深まると思うんだけど、その辺は教師の裁量に任せているのかしら。
2010-03-10 18:28:57![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
各研究者が自らの専門分野に固執し過ぎであるというのは、教科書執筆に限った話ではなく、日本の歴史学全般に共通する問題だと良く指摘されますね。もっと言うと、日本のアカデミズム全般に当てはまることなんでしょうが、歴史学は学問の性質上その欠陥が目立ちやすいのだと思います。 @num
2010-03-10 19:09:15![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
フォロワーの方には和やかで平和な twitter を期待されている方が多いと思いますので、この種の話題でタイムラインを埋めてしまうことに対しては、最初にお詫び申し上げます。ランチの後に、幾つかの応答を記したいと思います。
2010-03-10 19:58:02![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
最初「泥沼」になるから、この種の論争は・・・と申していた自分が結果的に瘴気溢れる「腐海」を作ってしまっているかもしれないということは自覚していますが、コメントをお聞きするうちに「腐海」の中から、それまで自分では気づいていなかった問題の種が出てきていると感じています。
2010-03-10 20:56:19![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
問題となっていたのは、①intellectual history とは何か?②哲学と哲学史の関係とは何か?それを超えて③ history とは何か?と、おそらくこの(計り知れないほど大きな・・・)三つが問題になって、かつ錯綜した形でやり取りが成されていたと思います。
2010-03-10 21:03:57![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
自分としては、③の大きな問題の前に、①と②に一応限定して、話をしたつもりでした。端的に自分の主張を繰り返すと、近代以前の哲学・科学者の残したテキスト・史料を「我らが同時代人」という観点で読むのではなくて、その同時代の歴史的コンテキストのなかで解明しよう、という穏当なものです。
2010-03-10 21:08:28![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
それを言うために、具体例が挙げられないで議論がなされていたので、『思想史とは何か』という翻訳もあるクエンティン・スキナーに言及しつつ、「我らが同時代人」としてホッブズを読むのではなくて、あくまで当時のコンテキストの中で読むことが前提として重要だ、ということを確認したつもりです。
2010-03-10 21:10:42![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
逆に言うと、スキナーに言及したのは、同時代の歴史的コンテキストの重要さを強調するためだけであって、彼の「方法論」を金科玉条のごとく守りましょうとか、そういうことを意図して述べたのではありません。その点については、何度かコメントを頂いたので、再度ここで念を押しておきたいと思います。
2010-03-10 21:12:19![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
テキストをコンテキストの中で読むというのは歴史学の人から見れば言うまでもなく当たり前だと思われるかもしれないですが、哲学の場合だと、例えばドゥルーズが言及しているからスピノザを読む、とか現代の形而上学的観点から中世の唯名論を読みなおすとか、そういうのもありふれているし、それは
2010-03-10 21:15:06![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
それで結果的に面白ければ良いと思うので、「我らが同時代人」的な観点から古典的なテキストを読み直すこと、それ自体を否定する気も、私にはありません。ただ、その現代的な読みを優先するものとは違って、intellectual history というものが他方ではあって、そこでは単に現代的
2010-03-10 21:16:35![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
観点から見たら、疑似科学と思われるものとか、理論的に甘いと思われるものとかも含めて、どうして、思想的なテキストが数ある歴史的可能性の中から、そのように生まれてきたのかをコンテキストに沿って解明するという学問もあります、と。
2010-03-10 21:19:23![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
BH 的に言うと「個々の文学や芸術作品などの背景にひそむ文化的・知的コスモスを探る作業」ということです。
2010-03-10 21:20:38![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
ここまでは自分でも予想していたことですし、特別に何かの「方法」が云々ということを声高に主張しているつもりもなかったのですが、歴史学の O さんのコメントをお聞きするうちに、氏が考えている「方法」や「理論」というものでイメージしているものが、私が意図しているものとは違うのではないか
2010-03-10 21:24:50![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
と思い始めました。というのも、ご本人は「史料中心の歴史学の手法」が大事だという当然のことを伝えたいだけだと思うのですが、それに付け加える形で「歴史研究者が原始的で職人的な心性に基いて研究するのは相当自明」とか「理論化の作業」が別にある、と仰っている。
2010-03-10 21:27:55![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
「理論化」ということで何を仰っているのか?または「原始的で職人的」であるというのは、何をもって「自明」なのか?それぞれが全く自明ではないからです。
2010-03-10 21:29:55![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
まず、「理論化」の方ですが、(史料批判という歴史学の「方法」の重要性は踏まえるとして)例えば歴史学でも初期のアナール派は社会学・人類学から影響を受けたとか、60年代は言語行為論から、その後は・・・みたいに外付けのグランド・セオリーを受容して歴史学が活性化したものがあると思う。
2010-03-10 21:33:06![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
で、そういうグランド・セオリーが重要とか、もしくは「職人的」な歴史記述とは別にある「理論」なるものを導出しようとか(もしくはそれを踏まえて歴史を書こうとか)、そういうことを、少なくとも僕は主張しているわけではないのです。たとえば、ということで、昨日も少し上げましたが、
2010-03-10 21:35:42![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
American Historical Review の書評欄には、毎号「特集」の次に「理論と方法」という特別な枠が設置してあって、そこで幾つかの本が書評されていると思うのですが、ではそこであげられている本が何かグランドセオリーや「職人的」な歴史記述を超えた「理論」なるものを提起
2010-03-10 21:38:02![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
しているかといったら、そうではないと思うのです。おそらく、そこで問題となっているのは、これまで注目されていなかったどういう史料を用いているのか、どういう観点で分析しているのかといった問題だけではなく、さらにはより説得力を持って議論を示すために援用されているナラティブの「型」
2010-03-10 21:40:49![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
だったり、アーギュメントを印象的に導出するための技法だったりを含むと思うのです。具体的に言えばパークが、おそらく「世俗化」ということで済まされてきたものを the shift from wonder-working objects to anatomical evidence
2010-03-10 21:44:31![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
という形でアーギュメントを残すことによって、中世の女性神秘主義者を語る歴史学的言説と近代科学の「証拠」や「実験」について言われてきたものが一つの地平で語られるという興味深いことを主張できていると思うのです。それが「世俗化しました」だけでは、やはり説得力がない。
2010-03-10 21:47:01![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
「理論」というときに、全てを包括するようなグランド・セオリーを言っているのではなくて、今の表現を使えば説得的&印象的なアーギュメントを構築する際の「型」とか「技法」というものが重要なのではないかと。というのも、BH だけではなく、Akihito 先生とかも、その点について尋常では
2010-03-10 21:50:30![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
ほど毎回気を使っていると思うのです。少なくともアキヒト先生のブログで「原始的で職人的」だ、とかそういうことを言っていることを見たことがないし、私が平井氏からご指摘いただくことの何割かもそういうことにかかわっています。つまり、「内容は正しいけれど、so what?」だという感じ。
2010-03-10 21:52:31