10周年のSPコンテンツ!

古代ギリシアのチャリオットについて

古代ギリシア世界における戦車(チャリオット)の使用例を解説します。競技祭や祭典行列に用いられることはあったようですが、戦場では…?
歴史 チャリオット 古代ギリシア 武具・兵器史
52
アザラシ提督 @yskmas_k_66
古代の戦車競争について、そして戦車の使い方について史料を手がかりにして解説いたします。「金の斧・銀の斧」に続いて第二弾です。よろしくお願いします。 pic.twitter.com/JEAlTNCp6R
拡大
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(1)古代の戦車といえば「チャリオット」ですね。名作映画「ベン・ハー」のほか、「Fate/Zero」のイスカンダルの乗り物や、「人類は衰退しました」のおじいさんがどこかから持ってきたチャリオットなど、この頃はアニメにも出てきます。 pic.twitter.com/CDdlLtBwyN
拡大
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(2)この戦争用の馬車は世界のあちこち、―メソポタミア、中国、エジプト、インド、そして地中海世界―で用いられたようで、関連する遺物が見つかっています。 pic.twitter.com/2PuRa3Gh6E
拡大
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(3)ギリシア世界におけるチャリオットの使用はミケーネ時代(前1600〜前1200年頃)に見出すことができます。 (参考: チャドウィック, J.『ミュケーナイ世界』みすず書房 1983, 277-87頁) pic.twitter.com/lFCqbYAXAV
拡大
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(4)ホメロスの『イリアス』からもチャリオットの使用を確認できます(Hom. Il. 5.192-239; 12.110-125; 22.395-404.)。戦車競争をしたり(第23歌)、負傷者を陣地へ連れて帰る役目もあったようです(11.163-4.)。
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(4 補足)これに関連して、ファン・ウィースという研究者は、チャリオットとは兵を乗せて戦場を駆ける「タクシー」だったのではないか、と述べています。 (van Wees, H., Greek Warfare, London, 2004, pp. 158-160.)
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(5)さて、ホメロスが生きたのと同時代、伝承によると紀元前776年に第一回目のオリュンピア祭(古代のオリンピック)が開催されます。一番最初の種目は短距離走のみだったようです(Paus. 5.8.5-6)。
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(5 補足)この年代決定ですが、すでに古代において批判がありました(Plut. Numa. 1)。ただ、紀元前8世紀末くらいには、この一地方の祭典が大きな注目を集めたことが奉納品の増加から見てとれます。 (参考: 宮﨑亮「オリンピア」『ローマ帝国と地中海文明を歩く』244-7頁)
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(6)で、このオリュンピア祭と戦車競走がどう関係しているのか…となると、正直、分かることよりも分からないことの方が多いです。
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(7)関連しそうなものには、オリュンピアの近くにあったピサという国で、ペロプスという青年が戦車競争でピサ王オイノマオスに勝利し、その後、王の娘とペロプスは結婚した…という伝説があります(Apollod. Epit. 2.3-9.)。 pic.twitter.com/xzTgSHXMTm
拡大
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(8)また、ペロプスかオイノマオスのための葬送競技があったとする史料もあります(Pind. O. 1.88-96; FGrH 257 F1 5-8)。いずれにせよペロプスはこの地で崇められた英雄だったようで、彼の彫刻も残っています。 pic.twitter.com/eU4Zwen7nU
拡大
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(6〜8 補足)オリュンピア祭の(ペロプスか、あるいは他の誰かの)「葬送競技起源説」の否定など、黎明期のオリュンピア祭については村川堅太郎『オリンピア』中公新書 1963, 57-79頁が説得的に論じています。
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(9)競技祭の初めの頃はわからずじまいですが、前680年に四頭立て戦車競争が競技祭の種目に組み込まれたようです(Paus. 5.8.8.)。その後、前500年に騾馬の戦車競争が、前496年に牝馬競争、前384年に若馬の戦車競争が追加されました(id. 5.8.10-5.9.2.)
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(10)いよいよ戦車競争について説明しましょう。この競技の舞台となったのはこの図のような競馬場(ヒッポドロモス)でした。360mほど離れた2つの標柱の周りをぐるぐると12周する競技です。 (図版出典: 『古代オリンピック』130頁) pic.twitter.com/P6fV3sgRG4
拡大
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(11)距離にして8000m以上、直線と急なカーブが延々と続くコースですから、春の天皇賞(3200m)や菊花賞(3000m)と比べると、すごく過酷なレースだったことが想像できるのではないかと思います。当然、コーナリングにはコツが必要でした(Hom. Il. 23.306-26.)
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(12)こういう競技ですから、やはり事故も多かったようです。例えばソフォクレスの『エレクトラ』からは接触事故の様子をうかがい知ることができます(Soph. El. 723-42)。
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(13)ちなみに、スタート直後は各戦車が接触しないように、また標柱までの走行距離が不公平にならないようにゲートをもうけるなど工夫もあったようです。 (ゲートについてはPaus. 6.20.10-12, および岡田泰介「戦車競走」『古代オリンピック』131-5頁をご参照ください。)
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(14)ところでこの連続ツイートをするに至った理由でもあります、「称えられるのは御者ではなく馬主(twitter.com/yskmas_k_66/st…)」…ですが、これはいくつもの史料がそのように語っていますから、まぁそうなのでしょう。
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(15)と申しますのも、良い馬を揃え、馭者や調教師を雇うのは大金が必要でした。なので、戦車競走ではスポンサーたる馬主が一番偉い存在となりえました。戦車競走はギリシア世界に自身の富を誇示し、名を広める絶好の機会だったのです(Isoc. 16.32-34; Xen. Ages.9.7
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(16)優勝した人は故国に帰ったら英雄として歓待されましたし、競技祭で優勝したことを政治に利用する人もいました。『世界史B』の教科書にも出てくる僭主ペイシストラトスは戦車競技で優勝したこと(…にしてもらったこと)を利用して追放中の身から祖国に復帰したのです(Hdt. 6.103)
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(16 補足)英雄として祀られたケース(Hdt.5.47; Martin, R., Un nouveau règlement de culte thasien, BCH 64/65, 1940, p. 176.)、政治利用のケース(Thuc. 1.126; Hdt. 5.71.)
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(17)特に、アルキビアデスという人は自分が出費した戦車がオリュンピア祭で優勝したのをいい事に「競技祭で優勝した俺こそが軍隊の指揮官にふさわしい!」と演説をした事もありました(Thuc. 6.16; Plut. Alc. 11)。
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(18)面白いものにスパルタ王アゲシラオス2世の妹、キュニスカが所有する戦車が優勝した事もあります。原則、女性は参加できないオリュンピア祭に女性が名乗りをあげた珍しい例です(Xen.Ages. 9.6; Plut.Ages. 20.1; IG V,1 1564a=IvO 160)
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(18 補足)どマイナーな人物(失礼!)かと思いきや、なんと日本語版Wikipediaに記事があります。上述した碑文史料(IG V,1 1564a)の訳文も載っています。 ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD… pic.twitter.com/hTHe28Yf64
拡大
アザラシ提督 @yskmas_k_66
(19)スパルタ人リカスの例も紹介しておきましょう。前420年、オリュンピアを管理するエリスというポリスと、スパルタの間が険悪になった時がありました。エリスは罰として競技祭からスパルタ人を締め出し、観戦のみを許したようです。
残りを読む(14)

コメント

トゥギャッターまとめ編集部 @tg_editor 2015年12月28日
史料を見つつ、理解が深められるまとめです!
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2015年12月29日
「称えられるのは御者ではなく馬主」あっ、司馬遷の『史記』に出てくる「馳逐重射」(多額の賭け金で戦車競走をする)も、千金を賭けているのは馬主の諸公子(王子たち)でした。「あなた様(馬主)を勝たせてあげましょう」という指南役の孫子(孫ピン)の台詞があり、2勝1敗に持ち込んでいます。この競技で孫子(孫ピン)は斉王の目に留まり、政治的に出世していくようです。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2015年12月30日
fushunia コメントありがとうございます! さきほど御教示いただきました『史記』の「孫子列伝」を確認しました。なるほど、古代中国でも王や有力者が馬を使って政治的な駆け引きをしていたのですね。古代中国の戦車といいますと、「趙の保有する戦車は千台」とか書かれてますし(蘇秦列伝)、戦場では数百・数千台の戦車がぶつかりあうので、やはりスケールが違います…!:(;゙゚'ω゚'):
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2015年12月30日
yskmas_k_66 ギリシアの場合、密集陣形の歩兵が戦車に対抗できたと聞いた気がします。あと、戦車の車輪のスポークの数ですが、ご教示の画像だと、スポークが4本(円に十字のかたちの車輪)ですね。新アッシリア王国時代のアッシュールバニパル王(紀元前7世紀)の「戦勝図杯」の絵では、スポークが8本ありました。中国の考古学でも、最近、スポークの数が多い青銅車輪の戦車(西周時代の異民族・西戎のものだったような)が出土したと報道されてた気がします。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2015年12月30日
fushunia 有名なものですとアッリアノスの『東征記』に、馭者が投槍で斃されてしまったケースや、敵陣地まで辿り着いたのに左右に散開されてしまって戦列を素通りしてしまったというのが載っています(『アレクサンドロス大王東征記』第3巻13章)。それから、スポークですが、全てを確認したわけではありませんが、ギリシアの壺絵に描かれる戦車は4本で、ローマのモザイクになると6本かそれ以上のものが見受けられます。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2015年12月30日
fushunia あと、これはガーベルという人の本で知ったのですが、どうもギリシア人(ミケーネ人)は4本のスポークを改良して、より強度のある6本のスポークにしようとはしなかったようです。(Gaebel, R.E., Cavalry Operations in the Ancient Greek World, Norman, 2002, pp.41-2.)
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2015年12月31日
yskmas_k_66 3世紀の西晋の学者・張華が書いた『博物志』によると、「奇肱(きこう)の民は機械をつくるのが得意で、それであらゆる食用の鳥を殺していた。飛車をつくるのが上手く、風に従って遠くまで行った。殷の湯王(紀元前15世紀)の時、西から大きな風が至り、その車を吹いて(中国の)豫(よ)州に到着した。湯王はその車を破壊し、民に見られないようにした。十年が過ぎて東から大きな風が至り、そこでまた車をつくって帰還させた。そうしてその国は(敦煌の西北の)玉門関を去ること四万里(の西域)にある。」
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2015年12月31日
yskmas_k_66 とあるようです。殷の初代の湯王というと、西域から中国に戦車が伝わったとされている時期に近いですけど、故事に湯王が出てくるのは、偶然かもしれません。殷代の青銅武器は、南シベリアのアンドロノヴォ文化から伝播して国産化されたものだと見られていて、アンドロノヴォ文化の遺跡からはチャリオットが出土しているそうです。現在のところ、中国の戦車は殷代後期の遺跡から出土したものが最古のようですが、馬車民との接触はもう少し早くても(湯王の頃でも)おかしくないですね。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2015年12月31日
yskmas_k_66 6本のスポークにしようとしなかったというお話が興味深いです。技術への投資に国・地域によって取捨選択があったかもしれないのですね。中国の文献は戦闘の描写が限定的ということもありますが、戦車が歩兵からどんな攻撃を受けたのか、勉強不足で文献を探せていないです。
nekosencho @Neko_Sencho 2015年12月31日
サスペンションとかあったんだろうか? 馬の速度で走ると舗装路でも相当振動があると思うんだが
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2015年12月31日
fushunia なるほどなるほど、戦車との接触を示唆するような史料があるのですね…!そういえば、アンドロノヴォ文化とよく似た文化に中国北部の夏家店下層文化があると林俊雄先生の本で読んだことがあります。おっしゃる通り、なんらかの接触はあったかもしれませんよね(・∀・)(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』56-7頁)
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2015年12月31日
fushunia あと、戦車への技術投資ですが、ミケーネ時代の人々はなんとか戦車を運用してはいたみたいですが、まとめにも書きました通り、時代が下るに従って戦場で用いられることはほぼなくなりました。これは起伏に富んだギリシアの地形にそもそも戦車が合わなかったせいや、馬がそこかしこにあったわけではなく、それなりに高価だったせいもあります。それでも戦車は地位や名誉の象徴であり続けたことだけは間違いないようです。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2015年12月31日
Neko_Sencho ギリシアの時代にサスペンションはなかったようですが、ローマの馬車は車軸の上に増設した4本の柱に革紐を結わえつけ、車台を吊り下げていたようです(参考 Ruprechtsberger, E.M., "Antike Wagenbestandteile (Gurthalter) aus Norikum und Numidien", Jahrbuch des Oberösterreichischen Musealvereines, 13-28, 1988)
nekosencho @Neko_Sencho 2015年12月31日
yskmas_k_66 けっこう本格的というか、まさにサスペンション(吊るす装置)ですね https://twitter.com/yskmas_k_66/status/682557345021345793
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2015年12月31日
Neko_Sencho ただ、ある読み物によると、これでも相当にひどい代物だったようです(笑) 現代の人間にとっては古代の馬車の振動にはとても耐えられないだろうと酷評しています(^^;) (参考: 藤原武『ローマの道の物語』原書房 1985, 110-1頁)
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2015年12月31日
yskmas_k_66 大学生の頃に読んだ論文では数学的な図を示して、「戦車から弓を射ても振動で当たる訳がない」し、「戦車の上から戈(か、鎌のような形状のホコ)そ構えて、すれ違いざまに、相手の戦車兵の身体に戈を引っかけたら、戈の方が飛んで行ってしまう」と春秋時代の戦車戦闘を全否定していたんですけど、文系脳的に非常な違和感があって、高価で希少な戦車には尋常ならぬ能力の人材が乗っていたんじゃないかと想像してしまいました(^^;
nekosencho @Neko_Sencho 2015年12月31日
yskmas_k_66 まあ、そこはしかたないというか、別の見方をすればふだんは馬の「歩く」速度なんで、走るときは耐えようというような感じだったのではw
イエーガー@ライファンも同じ名前でやってます @Jaeger75 2015年12月31日
この時代の加工技術だと下手に機構的なサスペンション組み込むより、各部品や全体の柔軟性に期待したほうが信頼性高そうだな。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2015年12月31日
yskmas_k_66 「ユーラシア草原地帯東部における青銅器文化の研究」(松本圭太、九州大学大学院博士論文2013年)第1章、P10によると、「岡崎は殷墟の出土の矛を編年し、最も古いタイプが既に完成された形態であることに注目した。さらにその起源についての仮説のひとつとしてラーの説を引き、セイマ・トルビノ青銅器群の矛を挙げている(岡崎 1953)」とありまして、アルタイ西北麓の「セイマ・トルビノ系アンドロノヴォ文化」の矛が殷の矛の標準モデルになっているとあるようです。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月1日
yskmas_k_66 同じ論文の3章と6章を読んでいました。このソ連地域のアンドロノヴォ文化の「青銅矛」(トランプのスペードのような形の矛)が、「中国」に入ると大型化(非実用的)したことが確認されており、今では青海、陝西、山西、河南の各省から出土しているとあります。ただ、「中国初期青銅器」(紀元前2000年~紀元前1500年)と分類されてるだけで、伝説上の五帝時代にあたる年代なのか?夏代なのか?殷代なのか?絶対年代の特定が難しい(形の比較で相対的にしか分からない)のが残念です(^^;
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月1日
yskmas_k_66 ソ連の草原森林地帯では壁や床に突き刺さったまま出土する例があるのに「中国」では鋭利さまで失われてるとあり、何だか「宝器としての見た目」優先の弥生青銅器に似てます。 http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/1398292/scs0208.pdf 別の論文に地図が https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185008.pdf
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月1日
yskmas_k_66 ギリシアの地形が影響を与えたのでしたか。戦国時代末期に書かれた『呂氏春秋』や『韓非子』には、春秋時代後期の大国・晋の貴族が「仇由」(きゅうゆう)という狄(てき)族のみやこを攻める場面があります。そこは深い山中で、道は難路で通じていませんでした。大きな鐘を鋳造して「仇由の君」に贈ることにし、君が大喜びで岸(がけ)を斬り谷を埋めて、大鐘を乗せた「広車」が到着するのを待っているところに、車の後ろから晋の軍隊が付いていったとか
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月1日
fushunia ああ〜、ギリシア史にも同じような戦車戦闘の議論があります!「戦車から射った矢なんてあたるはず無い」とか「いや、突撃によって相手に精神的な威圧感を与えられればいいのだ」など…(笑) それから、アンドロノヴォ文化に関わる論文ですが、拝読致しました。学生の頃から古代の黒海北岸を、もちろん遊牧民も勉強しているのですが、古代の遊牧民の全体像や各論全てを情報収集しているわけではないので、勉強になりましたm(_ _)m
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月1日
fushunia 地形と戦車についてですが、悪路であっても戦車を用いた例があります。例えばスキュタイ人は凍結したキンメリア・ボスポロス(現・ケルチ海峡)の氷上を戦車とともに移動したらしいです(ヘロドトス『歴史』4.28)。また、ブリトン人は訓練のなせる技でしょうか、険しい道でも戦車を操ってローマ軍を翻弄しました(カエサル『ガリア戦記』4.33)。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月1日
fushunia さらに、ブリトン人カッシウェラウヌスは森の中に戦車を隠し、ゲリラ戦法でローマ軍に損害を与えました(カエサル『ガリア戦記』5.19)。ですので、戦場となる土地をどれだけ熟知しているか、また戦車で攻撃する側の訓練の度合い、あるいは防御側に戦車を迎え撃つ用意ができているかで、戦車は戦術的に有効となったのでしょう……たぶん(^^;
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月1日
Neko_Sencho ローマ人の例ではありませんし、真偽のほどは定かではありませんが、遊牧民のフン族は子どもの時から馬車の上で育つなんて記述もあります。耐えるどころか慣れちゃう人もいたことでしょう(アンミアヌス・マルケリヌス『歴史』31.2.10)。おっしゃる通り、ローマ人にせよフン人にせよ、普段は適切な速度でのんびりと進んだと思います(笑)
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月2日
yskmas_k_66 『黒海沿岸の古代ギリシア植民市』でもボスポロスを見かけましたが、名前が似た場所が違うボスポラス海峡とは、何か関係があるのでしょうか?シベリアでも、凍結した川が「道」だったという話をどこかで聞きました。戦車でゲリラ戦とか凄い記述が残っているのですね。やっぱり世界の歴史は広く追いかけないと、貴重な事例を見逃してしまうと思いました。本当にありがとうございます。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月2日
yskmas_k_66 海上生活者の家舟の人たちの中にも、陸に上がるとふらふらするとか、みんながそうでは無いのでしょうが、そんな話を聞いたことがあります。そういえば、私の経験ですけど、トイレがある廊下と精肉店があるフロアがガラスで仕切られている商業施設の1階で、変な仕切りを見てエレベーターに乗ってる錯覚をした瞬間、震度4くらい揺れ出したんですが、揺れてるのは私だけだったということがあります。エレベーター乗車中は、脳が揺れを補正しているのかも
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月2日
yskmas_k_66 林俊雄先生の本を読んでると、「スキタイ」の源流は、「モンゴル高原の「鹿石」とカラスク式青銅剣(殷末にモンゴリアもしくは長城地帯で生まれた)」だと説明され、「こうして騎馬遊牧民が生まれた」と分かったという発見がありますね。それより更に以前の段階では「小麦農耕・放牧・漁猟」を馬車の民がしていて、単純遊牧化していない彼らが、中国の文明に大きな影響を与えたという話があるのですが、まだ誰も一般向けに本を書いてくれていないようでして。
こざくらちひろ @C_Kozakura 2016年1月2日
この時代のギリシャには鞍や鐙がないから、馬に直接跨るのは危なかったんでしょうね。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月2日
fushunia そうでしたそうでした。「ボスポロス(Βόσπορος)」ですが、これは「海峡」そのものを指す単語でして、場所にあわせて「トラキアの」ボスポロス(現ボスポラス海峡)と「キンメリアの」ボスポロスと使い分けていたようです(ヘロドトス『歴史』4.12; 4.83など)。ちなみに、ダーダネルス海峡は「ヘレスポントス」と呼んでいました。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月2日
fushunia または、ギリシア神話において、牝牛に変えられた女性イオが海の間を渡ったことにちなんで「牝牛の渡しβοὸς πόρος」から「ボスポロス(Βόσπορος)」になったともありますが、ちょっとこれはよく分からないです…(アイスキュロス『縛られたプロメテウス』732-5; 使用例としてはオッピアノス『漁夫訓』617-9)。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月2日
fushunia 脳が揺れを補正していることに関してですが、乗り物などの揺れに適応した後、陸地や揺れのない場所にいると起こる「陸酔い」は、中枢神経の適応が円滑にできないことが影響しているらしいです。内耳の異常から酔いが発生するのではなく、おっしゃる通り、中枢神経の「感覚の異常」から酔いが発生することがあるようです。…完全に専門外なので間違っているかもしれません(^ω^;)
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月2日
fushunia スキュタイの起源についてですが、古代人もなんとなくでしょうけれどスキュタイ人が東からやってきたのだろうと考えていたようです。ヘロドトスは中央アジアのどこかで遊牧民同士の抗争から逃れて黒海北岸までやってきたとしていますし(『歴史』4.11-13.)、ディオドロスはスキュタイがカフカス山脈からドン川に至るまで支配していた云々と伝えています(『歴史叢書』2.43.1-2.)。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月2日
fushunia スキュタイの起源神話のようなものもあります。曰く、ゼウスとドニエプル川の精霊から始祖が生まれたとか、ヘラクレスと蛇女の間の子が始祖だとか(ヘロドトス「歴史4.5-10」)、ゼウスと蛇女の間の子が始祖だとか(ディオドロス『歴史叢書』2.43.3.)、ユピテルと半獣の妖精か何かの間の子が始祖(ウァレリウス・フラックス『アルゴナウティカ』6.48-68)などなど。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月2日
fushunia もちろん、あくまでも伝承ですから、実際はどうだったかとなると考古学を含めた緻密な検証が必要になってくるかと思います。このあたりは雪島宏一『スキタイ 騎馬遊牧国家の歴史と考古』雄山閣 2008 が、ロシアにおける議論や研究を紹介しています。ただ、中国における騎馬遊牧民の議論は例によってフォローしきれていないです…(´・ω・`)
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月2日
fushunia 他方で、吉田敦彦「ヘロドトスのスキュタイ神話」『西洋古典学研究(20)』1972 や、同じく吉田敦彦『アマテラスの原像』青土社 1987 は各国・各地の神話や叙事詩と比較しながらヘロドトスの伝えるスキュタイ神話を検討しています。やはり、スキュタイ以前や、古典文献が言及していないものだとなかなかに難しいです(;´∀`)
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月2日
C_Kozakura 騎乗に関しては、おっしゃる通り、現代人の目からしてみると不安定な乗り方をしていました。手綱とか馬の心理を読んで操っていたようです。 ちなみにですが、紀元前4世紀に書かれた馬術書が残っています。馬の選び方、乗りこなし方、調教の方法などが書かれてまして翻訳もあります(・∀・) http://www.kyoto-up.or.jp/book.php?isbn=9784876981182
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月2日
yskmas_k_66 渡邉英幸氏の論文「春秋時代の「戎」について」によれば、匈奴(戦国時代の後半にはじめて登場)以前の時期に中国の内地に移動してきていた「戎狄」と呼ばれる異民族は、半農半牧でかんたんな城郭(集落)を持っていたことから、これを「牧畜民」と呼ぶべきで、匈奴以降の「遊牧民」とは区別すべきだと定義されています。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月2日
yskmas_k_66 その「戎狄」ですが、春秋時代の中原にいた白狄の一種の「鮮虞」が戦国時代に城郭都市国家の「中山国」を建国していまして(河北省)、その遺跡から青銅のグリフォン像が出土するなど、文化遺物的には西方世界で「遊牧民」と呼ばれている人たちと金属製品が共通しているようです。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月3日
yskmas_k_66 甲元眞之氏の論文「気候変動と考古学」によると、草原地帯の「遊牧化」は、西周末期の気候寒冷化による困難に直面して促進、広がったのではないかと書かれていたと思います。 http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/7901/1/BR0097_001-052.pdf
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月3日
yskmas_k_66 西周初期には山西省に「鬼方」と呼ばれる牧畜民城郭国家があったのですが、西周初期の青銅器銘文には、彼らの戦車を西周王朝軍が捕獲した記述があり、騎馬ではなく、戦車の民だったと見られています。騎馬については、中国北方の草原地方で「騎乗した姿を描いた岩画」が見つかっていますが、漠然と「商周」と時代区分されているだけで、無難に考えると西周後期やそれに近い時代となりそうです。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月3日
yskmas_k_66 先日の松本氏の論文のロシア考古学の記述では、曖昧な感じがして頭に入らなかったんですけど(^^;もう少し遡って紀元前1500年~前1000年くらいの間のいつかに(カラスク文化と絡めて)、騎馬のはじまりを求めていそうな感じでした。カラスク文化がスキタイの源流とする林氏などの説を考えると、カラスク期から馬への乗りかかり行為があってもおかしくないと感じるのですが、2015年刊行の『世界史を変えた50の武器』によれば、馬車時代のウマは背骨が弱くて騎乗に適さなかったはずだとありました。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月3日
yskmas_k_66 先ほどの「鬼方」という勢力は、殷代後期の殷墟時代の殷王朝の最大の敵だったことが甲骨文の記述から分かっています。殷末周初の鬼方勢力の本拠地の遺跡は、陝西省の北の果てから「李家涯古城遺跡」が発見され、殷末周初にかけての時期で、李家涯文化の鬼方の遺物の中には、カラスク文化系統のものが多く含まれていました。(李家涯の出土品をA、B、Cに分類して、そのC類がカラスク系だとか)
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月3日
fushunia 遊牧民と牧畜民の区別ですが、なるほどなるほど、古代中国史ではそのような定義付けがあるのですね。林先生の『スキタイと匈奴』にそれとなく書いてありましたが(182-3頁)、そういうことだったのですね(・∀・)
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月3日
fushunia 騎馬遊牧の始まりですが、これは非常に難しいですね(^ω^;) マクニールは「乗馬は紀元前900年以降になるまで普及しなかった」とキッパリと言っていますが…(マクニール, W.H.『世界史(上)』中公文庫 2008, 71-2頁)。ともかく、林先生の研究動向紹介を念頭に置きつつ(『スキタイと匈奴』42-60頁)、文字史料と考古学的な遺物から思いつくままお伝えいたします。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月3日
fushunia まず、ウマ科の動物が文字史料に登場するのは紀元前3000年紀のシュメールの時代、ウマ科を総称して「ANŠE」、ロバを「ANŠE.DUN.GI」など、ウマを「ANŠE.SI-SI」などと呼んだようです。シュメールの文書群からはロバやウマを家畜として使用していたことがうかがえます。この時点では騎乗したかどうか、車を牽かせてその上に乗ったかまではわかりません。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月3日
fushunia もンのすごく古い例ですと、紀元前3000年紀ごろに作られた、何かに乗っている人の像がヨルダン南部で見つかっています。また、メソポタミアではウル第3王朝からバビロン第1王朝の時代にかけて、騎乗している人の図像表現が見受けられます。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月3日
fushunia あと、紀元前18世紀のマリ文書からは戦車の使用がはじめて文字から確認できます (Heimpel, W., Letters to the King of Mari, Winona Lake, 2003, pp. 222-3, 246, 285など)。軍馬の管理については紀元前15世紀の粘土板が最古のようです(歴史学研究会編『世界史史料 1』岩波書店 2012, 95-6頁)。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月3日
fushunia このように、紀元前2000〜1700年にはウマやロバに騎乗する人、他方で、車に牽かせて乗ったことが記録されており、そのような利用方法があったと考えられます。カラスク文化や騎馬遊牧民との関係はなんとも…といったところですが、いずれにせよ県立図書館の開館日になりましたらご教示いただきました『世界史を変えた50の武器』を手に取ってみようと思います(・ω・)
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月5日
yskmas_k_66 何をお返事していいか、分からなくなるくらい驚いております。馬のお尻近くに乗る「ロバ乗り」をしているもの(図3)もあれば、背中の真ん中に乗っているように見えるもの(図2)もあるのですね。遠く場所が離れていますので、何とも言えませんが、図3は馬の口にハミをつけて騎乗している最古の画像資料ということになるのでしょうか?西周時代の骨角製ハミは、後期青銅器時代の末のユーラシア草原地帯及びヨーロッパのハミと共通の型式があるそうです。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月5日
fushunia http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/27282/1/AN10407034-32-1-12,takahama.pdf 論文「西周時代の骨角製のハミドメの一種について」(ハミドメの漢字は金へんに鹿みたいな字) ご教示のメソポタミアとは随分と時代が違いそうですが、とりあえず。ハミじゃなくてハミドメでした。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月6日
fushunia 馬の口にハミをつけて騎乗しているもの、となると最古級だと思います。騎乗像ではありませんが、"馬(?)の口元に何かを装着した"のを表現したであろう像はもっと古いものがあります。シリアのテル・エッ=スウェイハト遺跡の2300年頃の地層から出土したものでして…。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月6日
fushunia あと、コメントに記載していただいた論文ですが、拝見いたしました。タイトルに西周とついていますが、ユーラシア各地域の事例と比較検討していてなかなかに興味深いです(`・ω・´)
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月6日
yskmas_k_66 【訂正】3つ前のコメント 「テル・エッ=スウェイハト遺跡の2300年頃の地層から出土した」→「テル・エッ=スウェイハト遺跡の紀元前2300年頃の地層から出土した」 つまり、言及いたしました馬の像はだいたい4300年前のものです。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月6日
yskmas_k_66 4300年前ということは、中央アジア草原地帯で4200年前に起きた寒冷乾燥化で、カタコンブヤナ文化を担った住民が四輪馬車を使用して「移動牧畜民」に変化してますから、その直前の時期ですね。先述の「気候変動と考古学」P8によれば、移動牧畜民説は「Hiebert2000」という論文に依拠するそうで、さいしょの移動牧畜民の分布範囲は、初期のアンドロノヴォ文化の範囲と重なるそうです。しかし、アンドロノヴォ文化の住居祉から農耕具が多数検出され、農耕地を探して移動放牧していたようです
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月6日
yskmas_k_66 「気候変動と考古学」P9を見ていたら、「アンドロノヴォ文化とそれに続くスルブナヤ(木郭墓)文化における騎馬と車(四輪車・二輪車)の導入(中略)学説も見受けられる(Chernykf1992、Anthony1998)」とありました。しかし、この論文ではこれを批判して「多数の家畜馬が確認されていない段階では、農耕をおこないながらも季節的放牧を営んでいたとするのが実際であろう」とし、飼育できる馬の数に自然条件上の制限があった社会だったようにも読めますね。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月6日
yskmas_k_66 国会図書館に行ってコピーした論文「中央アジアの考古学―後期青銅器時代から初期鉄器時代への変遷」(堀晄、『インド考古研究』、2005年)がコピーの山の中から出てきました。BMAC(バクトリアマルギアナ複合)文化について、「BMAC文化がウマ文化と接触していたことは事実である(中略)骨製の鏡板が一件(中略)青銅のハミ(くつわ)や、ウマ科の動物像をあしらった化粧用ピン」とあり、
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月6日
yskmas_k_66 化粧用ピンが出土したタジキスタンのザーダチャ・カリファの墓は、男根形石棒や装身具にアンドロノヴォ文化の特徴がよく示されていて、化粧ピンが入っていた土器やこの墓からも出土した骨製鏡板3点は、外からもたらされた移入品だとあります。これは極めて例外的なもので、BMAC文化の家畜構成にウマは認められないそうです。1点の方の鏡板はウズベキスタンのジャルクタン遺跡でした。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月6日
yskmas_k_66 それから、鉄器時代に移行すると、初期鉄器時代初頭のアアウ4期とヤズ1期の文化で、本格的な馬匹導入が起こり、ヤズ1期ではウマが2.8%、ヤギヒツジが49%などとあります。基本的に青銅器時代と共通し、ウマが加わっただけで、ブタもいるので、定住的な社会。明確な建築遺構(レンガ基壇)も見つかり、土器にも以前からの連続性がある(遊牧民による、先住民根絶は認められない)。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月6日
yskmas_k_66 とありますが、土器製作のときにロクロが使われなくなったなど、アナウ4期からヤズ1期の遺跡は規模が小さくなっているようで、このときにウマが導入されたことは、その後の北インドのピーラク遺跡のウマ出現につながっていくとあります。この論文は、他地域から侵入して在来文化を圧倒した「インド・イラン語族の民族移動」に否定的ですが、言語学や中国の歴史の例を考えると、少数の外来人が浸透してきて、経営母体を乗っ取るくらいのことは有り得る気がします。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月6日
yskmas_k_66 考古学では、文化の根絶や切り替わりが「征服」の考古学的認定条件になっているようですが、文献学的な私の感覚では、(後世のペルシア帝国や漢に比べて)武器が未熟で、数十人や数百人が近くや遠くの村落を襲撃するような段階だと、「浸透」という方法で事実上の征服があったはずだと思っていました。彼我の武力のバランスを考えながら婚姻、婿入りが選択され、在来の土器を使用しながら、小集団の主となり、世代を重ねると同化していく。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月7日
fushunia 「浸透」というのは実に興味深いですね(゜ω゜)。紀元前5世紀の黒海北岸地域の場合ですが、ここにはカリピダイ族という「ヘレネス・スキュタイ(ギリシア系スキュタイ人)」がいました(ヘロドトス『歴史』4.17.)。彼らは、ヘロドトスを額面通りに読むならば、穀物や野菜を栽培するなど、ギリシア人が想像したスキュタイとはどこか違う人々だったようです。他方で、彼らの風習は他のスキュタイ人ととおおむね同じであるとも述べてもいます。
アザラシ提督 @yskmas_k_66 2016年1月7日
fushunia 実際、スキュタイとギリシアの双方の要素が混ざったような、この地域にしか見られないような遺物・遺構があります。例えば、ドニエストル川やドニエプル川流域、クリミア半島の現フェオドシア市近郊では、土着の要素が強い手捏ね土器と、轆轤を回して作ったギリシアの壺が一緒に出てくることがあります。ようするに、先住のスキュタイ人と、後からやってきたギリシア人がうまく混淆していった集落があったようです。
科技アカウント @kagimatome 2016年2月28日
紀元前に騎兵よりも戦車が好まれたのは、当時の馬はまだ品種改良が進んでおらず、背丈がかなり小さかったため、鎧を付けた兵士を乗せて走るには貧弱すぎたからだとも言われています。確かに、(7)のレリーフのような写実的な作品でも、明らかに現代的な感覚からすると馬が小さい(下手すると、人の足が地面に付いてしまう)感じを受けます。
ログインして広告を非表示にする
ログインして広告を非表示にする