- Leethoo_Tat
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世俗化過程の更なる深化としての、「他者の無知(未知)・内なる未規定性を期待することの出来ない状態」をなんと形容すればいいのか?
2015-12-30 14:11:11「知らない」ことを、知らない。現代人は無知の知が増大し、無知の無知が爆縮している。相手に無知の知を期待し、無知の無知を許さない。それでも、世界の情報量は膨大なので、久遠の未来までこのプロセスは続く。
2015-12-30 15:04:06「知らない」と言い出しづらくなる。セカイ系主人公たち全てがこの格言を胸に刻めば悲劇は起きない「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」黄金の驢馬、ミルナの禁忌
2015-12-30 15:14:18@nanbashura あ、挨拶の方が後になってしまいまして。あけましておめでとうごさいます、今年もよろしくお願いします。
2016-01-01 11:03:00何と己はまだこの牢獄の中に屈っているのか。呪わしい陰気なこの壁穴の中に。優しい陽の光さえ、絵硝子の窓に遮られて濁るではないか。ただでさえ狭いこの部屋を書物が更に狭くし、その書物も紙魚に喰われ、埃に覆れて、高い丸天井近くまで積み上げられたその山に、煤けた紙の付箋が挟んである。(続)
2016-01-02 00:45:50辺り一面、硝子瓶が置いてあって、器械類が場所を塞いで、その上更に、家伝来の家具までが置いてあるとはーーこれがお前の世界だが、これでも世界といえようか。(ゲーテ『ファウスト』ファウストの言)他人事ではない…w
2016-01-02 00:47:06カントが「人間学」の冒頭 で知見を極めたかったら旅に出るかケーニヒスベルクのような世界のありとあらゆる知識が集まるところに引きこもって本を読みあされみたいなこといってたが、「前者は無理だからと後者の態度に開き直ってる」とかいう注がついてた記憶が…w
2016-01-02 00:53:46nada nada nada nada nada nada y aún en el monte nada.(無、無、無、無、無、無、山中においても無。)(十字架の聖ヨハネ)
2016-01-02 10:49:27カルメル山図:向かって右の道は「地上の不完全さによる霊的道」と名付けられ、途上には「所有、喜び、知識、慰め、安らぎ」と記されている。左の道は「天上の不完全さによる霊的道」と名付けられ、途上には「栄光、喜び、知識、慰め、安らぎ」と、ほぼ同様の言葉が記されている。(続
2016-01-02 10:52:43そしてそれぞれの語を線で指して、「これではない(ni eso)」、「これでもない(ni esotro)」という否定の言葉が逐一書かれている。これに対して中央の道は「カルメル山の小径」と名付けられ、途上にはただ、「無、無、無、無、無、無、山中においても無」と記される。(続
2016-01-02 10:53:07「無の博士」と称されることもある十字架のヨハネの思想における「無」の位置がよく示されていよう。ヨハネにとって無とは、「地上の」一切の善のみならず、「天上の」、つまり通常では宗教的に価値があるとみなされるものをも全て、「これでは無い」と否定するその否定行為のことである。(鶴岡賀雄)
2016-01-02 10:53:57@nanbashura ところで、思い立って「正法眼蔵」を少しずつ読んでいるんですが.前に禅の話をしてくださったことも併せて「「十字架のヨハネ」が禅すぎる件」と仰ってた難波さんの見解が思い浮かび上がった次第でございます。
2016-01-02 21:45:11@Leethoo_Tat 正法眼蔵は読めば必ず間違った解釈を立てて理解してしまう難読書なので、井上義衍系の禅者の動画など、実際に悟った老僧の認識形態をご覧になってからお読みになる方が良いと思います。
2016-01-02 21:55:10@nanbashura ちなみに読んでる版は講談社学術文庫の増谷文雄のものです。動画ですか。ようつべで探せばありますか?
2016-01-02 21:59:34@Leethoo_Tat こちらが生前の動画で tensekisha.com/inouegienvideo… こちらが法嗣の貫道老師の動画です youtube.com/watch?v=nAuc6M…
2016-01-02 23:07:23@nanbashura わかりました。正法眼蔵を読むのはこの方の動画を見てからにします。重ね重ねありがとうございます! (>人<;)
2016-01-02 23:28:37