中村圭志先生 @7AChip による宗教についての言語論的な思索

宗教概念批判のもう一歩先のところ、ですね。ここが一番大事なところだと私も思うんであります。('ω')
2
Keishi N 中村圭志 @7AChip

たとえて言えば、宗教は哲学や芸術や瞑想よりも、むしろ会社や町内会や国家に似ている。いずれもアスピー系のルートウィヒ君の苦手そうな分野だ。

2016-01-14 15:05:48
Keishi N 中村圭志 @7AChip

会社に勤めている人は必ずしも会社の業務を理解していないし、その企図に賛同してもいない。それでも給料や慰安や慎みや諦念や期待のため、会社を辞めない者が多数派だ。そんな集合体――「キリストのからだ」?――の中で、一部の人が瞑想したり教理を探求したりする。

2016-01-14 15:06:05
Keishi N 中村圭志 @7AChip

これは「頽落した宗教」や「政治化した教団」のことを言っているのではなく、宗教とはすべからくそのような生態系だということである。

2016-01-14 15:06:18
Keishi N 中村圭志 @7AChip

ここで、何か純粋な問題追究のため、人生や宇宙の根本問題のために打ち込んでいる一部の人の営みは、なるほど重要な営みであるかもしれない。しかし、それが宗教、あるいは宗教の本質というわけではあるまい。コアの宗教から雑駁な準宗教が放射しているわけではあるまい。

2016-01-14 15:06:34
Keishi N 中村圭志 @7AChip

しかもそのような営みは、ちょうど哲学一般の営みと同様、常に開発途上であるか失敗の連続のようなものである。仮にそれがコアだとしても、そこから生まれる答えによって彼が求心力をもっているのではなく、答えにならない答えに対する人々の曖昧なる期待によって求心力をもっているというのが実情だ。

2016-01-14 15:06:47
Keishi N 中村圭志 @7AChip

哲学の重要度は哲学によって計られるだろう。では、宗教の営みの重要度が宗教によって計られるとすると、それは孤立した個人の哲学的達成に基準を置いたものではないだろう。修行の完成度ですら、実は宗教にとってはどうでもいいことかもしれない。どうせ完全なる人間など存在しないのだから。

2016-01-14 15:07:02
Keishi N 中村圭志 @7AChip

というわけで、宗教がルートウィヒ君的な探究の中に本拠を置くかどうかは極めてあやしい。むしろ個人の外側の雑駁なやり取りの中にほんわかと浮かび上がっているようなものかもしれない。

2016-01-14 15:07:15
Keishi N 中村圭志 @7AChip

先に「格闘技」の比喩を持ち出したが、これとて、個人vs個人の格闘技を連想させるとすれば、それはミスリーディングだ。「語り得ないもの」は魂の内奥の神秘ではなく、外部世界の政治的とも言える現実にあるのかもしれない。

2016-01-14 15:07:30
Keishi N 中村圭志 @7AChip

これは宗教の営みをノミナリズムによって解体しているのではない。また社会還元論というわけでもない。むしろ汎神論に近いモデルかもしれない。もちろんそれはそれでひとつの仮説ということになり、必ずしも賛同者はいないだろう。

2016-01-14 15:07:43
Keishi N 中村圭志 @7AChip

ちなみに、大乗仏教は、個人の行の完成を目指す初期仏教の構造を解体することで成立した。そこでは自利と並んで利他という開放的なモーメントがある。出家と在家、輪廻と涅槃、未来の救済と瞬時の悟り、自力の行と他力の信仰、禁欲と呪術や儀礼、等々の区別は解体しつつある。

2016-01-14 15:07:58
Keishi N 中村圭志 @7AChip

ルートウィヒ君の営みを、たとえば釈迦の無記や禅の不立文字と比較するのは適切ではないのかもしれない。それは、ルートウィヒ君があくまで論理の側に立ち、禅が神秘の側に立っているからでもあるが、そればかりではない。 pic.twitter.com/IjMfYBM4SE

2016-01-14 15:08:26
拡大
Keishi N 中村圭志 @7AChip

ルートウィヒ君の「宗教」が日常のゲームに開放されたのだとすると、禅を見るよりも、宗教団体の新聞における教祖がなんとか大学の名誉博士号をまたもや貰ったとかいう記事のほうを見たほうが近道だということだ。 pic.twitter.com/WYkbpA4zJR

2016-01-14 15:10:09
拡大