最古の「禅譲」思想は、インフルエンザウイルスのような危険な異物だった!?儒教の王位継承を全否定した戦国燕の「賢人王」は、ワーテルローのナポレオンのように滅んだ
画像は、下半身が蛇になっている男女、つまり神話上の人類の始祖の伏犠(ふっき)と女媧(じょか)の絵です。漢代のもの。撮影OKということで、天理参考館に展示されているのを撮らせて頂きました。 pic.twitter.com/s8jiW0Egsk
2016-03-21 16:41:44次は何をまとめようかと、考えていましたが、「禅譲」についてが良さそうですね。神話では、古代の五帝や夏王朝の禹が「禅譲」をしたことになっているのに、何故か、本当に実行に移すと、ひどく揉める
2015-12-31 10:51:16@jiangjie2015 戦国時代からみたいです。三国の呉が滅亡した280年の前後に戦国魏王の墓(王族の墓説も)が発掘され、歴史書『竹書紀年』が出土しますが、そこに「昔堯德衰,為舜所囚也.」って驚愕の内容が書かれていました。
2016-01-09 00:51:53昔、五帝の堯(ぎょう)の徳は衰え、帝舜(が帝堯を攻めて)の囚(とら)えるところとなった。
@Golden_hamster 巫俊さんから、戦国時代から禅譲らしき言説はあったとの事ですが、後漢まで王朝交代の論理が何パターン想定されていたのか気になります
2016-01-09 00:58:49@jiangjie2015 @Golden_hamster よく考えると、禅譲は世襲王朝から世襲王朝への切り替えとして登場した訳では無いんですよね。禅譲の王位継承とは、代々有徳の人間によって王位が継承されていくというもの。本当にこれをやろうとしたのが戦国の新興国「燕」です。
2016-01-09 01:11:26@jiangjie2015 @Golden_hamster 賢人王が、次の賢人を見出して王位を継承していったら、ローマ帝国みたいになっちゃいますよね。だから、燕の革命政権は周辺国の反革命勢力から袋叩きにされてしまいました。そのあと登場したのが連合軍側の人間の楽毅です。
2016-01-09 01:15:17@mamesiba195 ありがとうございます。三国志の人物に好きとか嫌いってあんまり無いんですけど(地域史や環境史が好きになったので、人物は客観的に見てしまうのかも)、「嫌いな人は?」と聞かれて、賈充と答えた記憶が。最近は禅譲が本来の儒家思想では無いと聞いて、考えが変わりました
2016-01-09 00:45:14@fushunia なるほど。興味深いですね? どのような内容ですか? 賈充は少しは見直そうと思ったのですが、娘を皇太子妃にした件を考えて幻滅して、自分が郭氏に苦しめられたことを主君や天下に押しつけた権力亡者だと考え直した次第です。私が徹底的に評価していないので、逆に聞きたいです
2016-01-09 00:51:28@mamesiba195 明日は早いので、ちょっと説明する余裕が無いですが、 「〈研究ノート〉燕王カイ禅譲:その思想的背景」です。禅譲思想は当時の革命的思想で、燕の王位が禅譲によって代々継承されることが決まると、燕は周辺国に袋叩きに repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/bitstre…
2016-01-09 01:08:18@fushunia 読みました。禅譲思想がそれまでないことが驚きでした。あれは、墨子が自分たちの思想を肯定するためにつくった思想だったのですね。墨子が衰退する理由もよく分かりました。ただ、私は曹髦を殺害したこと自体はそこまで気にしてないので、賈充の印象は変わりませんがw
2016-01-09 19:52:03@mamesiba195 すいません、期間があいてしまいましたが、読んで頂いて、ありがとうございました。賈充のことをじっくりと考え直したことはまだ無いんですけど、漢代の「禅譲」思想は妥協の産物(儒教が異分子を取り込んだ)であり、禅譲には警戒が伴うというややこしさが火種にある気が
2016-01-12 14:15:11【まとめ】
戦国時代の「禅譲」思想は、インフルエンザウイルスみたいなもので、危険な「異物」だった。
儒教の側では、このウイルスを弱めて自分の身体の中に取り込むことにした。
再び、このウイルスが流行しても、儒教にとって致命的な結果にはならないように弱められ、漢代中期以降、ハードルの高い特別な条件を満たしたときにだけ、新しい家系に皇帝の位が移動することを認めた。
本来の戦国時代の「禅譲」思想とは、血縁による王位の継承を全否定し、賢人王を立てるというもの。
能力の高い人物から次世代の能力の高い人物へと、実際に王位を継承させていこうとする新しい社会制度で、まさしく革命でした。
実際に革命を起こして、賢人王が立った戦国燕国は、ナポレオンがそうだったように反革命の周辺国から攻められて、滅ぶことになります。1度占領された燕国が国家を再建するときに、反革命の周辺国からやってきて宰相の地位についたのが、有名な楽毅(がっき)です。
楽毅が、儒教などの道徳的大義を忠実に守る姿勢を見せたのには、こうした裏の事情があることが分かります。後世の歴史書では、楽毅は理想の人物とされ、諸葛孔明など多くの名士・士大夫に影響を与えましたが、
違う視点から見れば、「誹謗中傷」を受けてこの世から消された、真の「禅譲」の歴史があることに気づきます。あれ?ローマ帝国みたいになってきたぞ。
イタリア半島の中の小さな都市国家だった頃のローマも、王政を廃止して、共和政に移行すると、周辺の王制国家から攻撃されたようです。危ういところを、何とか逆転して勝利みたいです。
2016-03-21 16:14:59ローマやギリシアの共和政治と、中国古代の賢人王統治には、大きな違いがあって、市民が決議して国家のことを決めるという経験が古代中国には無いので、「ローマ帝国みたい」ではあっても、ローマ帝国とは大きく異質なものになったと思います。
2016-03-21 16:18:43戦国時代に創作された「五帝」と「夏」の神話の虚実について
紀元前2200年頃→地球環境の寒冷化で稲作文明の長江文明が崩壊 紀元前1750年頃→2度目の寒冷化を受けて、夏王朝成立(二里頭文化) 紀元前1520年頃→3度目の寒冷化を受けて、夏王朝崩壊、殷王朝(二里崗文化)成立 甲元眞之氏の論文「気候変動と考古学」(2008年)より
2016-03-21 13:28:10@yskmas_k_66 甲元眞之氏の論文「気候変動と考古学」によると、草原地帯の「遊牧化」は、西周末期の気候寒冷化による困難に直面して促進、広がったのではないかと書かれていたと思います..「古代ギリシアのチャリオットについて」 togetter.com/li/918021#c239…
2016-01-03 00:01:04「気候変動と考古学」の論文は、こちらをクリックすると読めます。(熊本大学学術リポジトリ reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298…
2016-03-21 13:29:38夏王朝と長江文明崩壊のあいだに、450年くらいの期間があるんですけど、ここに「五帝」を突っ込むと、ぴったり合うんですね(笑)まあ「五帝」神話というのは、殷と周の情報で上書きされてしまった中原の人たちが、春秋時代に「夏王朝」を発見して、さらに「五帝」(13人以上いる)を発見したもの
2016-03-21 13:31:47この仮の名称「五帝期の温暖化時期」に、中国北部で青銅器化がはじまるようですね。ソ連シベリアの森林草原地帯から西方の文化である銅矛などが伝播してきたようです。
2016-03-21 13:32:59「五帝」ってのが、本当にいるとしたら(神話の人物像はほとんど後世の創作ですが)、さいしょに青銅器が入ってきた時代だから、北海道にさいしょに鉄器が入ってきた続縄文時代(奈良時代)の首長たちみたいな感じなんでしょうね。
2016-03-21 13:34:49