福音書の百人隊長のエピソードはイエスが同性間の性愛を認めている事を意味するか
- MontyGlycon0
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さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、 「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。 イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。 (マタイによる福音書 8章 5~7節)
2016-02-11 06:00:11そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。 (マタイによる福音書 8章 8節)
2016-02-11 09:00:11わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。 (マタイによる福音書 8章 9節)
2016-02-11 09:00:12なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、 この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。 (マタイによる福音書 8章 11~12節)
2016-02-11 12:00:16百人隊長の少年愛 lgbtcj.blogspot.jp/2015/09/blog-p… 「ユダヤ教徒でない=信仰も異教徒」は飛躍に過ぎる。「僕」が「子供」の意味を持つから、という所から話を広げているが、イエスの「兄弟」は「いとこ」と解されるが、元は「兄弟」という語に変わりないのでマリアは終生処女でない
2016-04-29 21:57:35とも言えてしまう。マリアがイエスのあとは普通に子をなした、という解釈は聖書原文からは可能だし、矛盾もない。しかしこれはカトリックの説に反する。カトリック教会の聖伝はそのような、字句の解釈から伝統的な読みと決定的に異なる別の筋書き(ストーリー)を見出す読み方を許容していない。
2016-04-29 22:02:19「そこで用いられている形容詞 ἔντιμος の語源である名詞 τιμή は「栄誉,尊敬,尊厳,価値」であり,関連する動詞 τιμᾶν は「崇める,敬う,価値あるものと見なす」である.」これも同性愛と解さなければ「ならない」だろうか?友情や侍従への思いやりではなぜいけないのか?
2016-04-29 22:04:20そもそも「もし彼が恋人でなく、ただの奴隷なら替えがきくんだから死んでもよかった」という相手をイエスはどれだけ評価するだろうか。その人物の信仰を認めるだろうか。まあ、これは友人やお気に入りの侍従、でも言える話だが。
2016-04-29 22:11:06言い方は悪くなるが、ペットであってすら、その病や怪我を治そうと、藁をも縋る思いになる飼い主がいる(野良を拾ったり保健所から保護したペットなら、何もせずに代わりを探したほうが安い)。「しもべ」であっても、言葉をしゃべる人間相手にそれが起こらないと言えるだろうか。
2016-04-29 22:18:56この百人隊長って、ヨナ書のニネヴェ人みたいな状態だったんじゃね?彼らはユダヤ教徒でなかったが、預言者ヨナの口から告げられた神の警告を受け入れて神を信じて、断食を呼びかけて身分の差なしに荒布を着た。神はそれを見て彼らが「悪の道」を離れたとみなし、滅ぼすのをやめた。
2016-04-29 22:35:10そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。ヨナはその町... fb.me/30qd0zvYP
2014-05-16 12:20:34ヨナ書 3:10 神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。
2009-10-21 23:46:46この時のニネヴェの民が割礼を受けたという記述はない。聖書の神がユダヤ教徒以外の祈りに応える、という前例は聖書にはあると言える。ただ、ニネヴェの住民がヤーウェ以外の神をセットで拝んでたという記述もない。もし拝んでたら聖書の神がそれを看過してたか?というのは言うまでもないだろう。
2016-04-29 22:39:29百人隊長のくだりは『マタイによる福音書』8章にあるが、その前の4章ではイエスの癒しを受けるためにガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダンの向こうから人々がやってきた、とある。現地滞在の軍人の耳にもその噂は入ってくるだろうし、そこで暮らしているなら、
2016-04-29 22:50:19イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。 (マタイによる福音書 4章 23節)
2016-04-23 15:00:14そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。 (マタイによる福音書 4章 24節)
2016-04-23 18:00:11こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。 (マタイによる福音書 4章 25節)
2016-04-23 21:00:17ユダヤ教が一神教であることくらいはわかるだろう。この百人隊長にはヨナ書でのニネヴェ人のようになる余地はあったという事だ。病気治しの奇跡は当時のローマにあった宗教も説くところだが、そうした神殿や神官の祈祷でうまくいかなかったのなら、最後の頼みの綱に異教の新グループの指導者に縋る事も
2016-04-29 22:54:43ありえるだろう。例えは悪くなるが、大切な人が病にかかったとして、現代医療で直せず、または手が届かず、寺社にお参りしても駄目だった場合、それまで接点がなかったからと、拝み屋的な人に頼ったり、そのような効用を謳う神秘商品に手を出す人は皆無だろうか?
2016-04-29 22:59:35