古代常陸と畿内との関係(常陸国風土記から妄想中)

常陸国風土記を読んでの妄想。 常陸国は、7C半ばまで、複数の国だったようです。 4C頃、畿内の方から人が来て、5Cくらいに一度断絶したのかも。 ヤマトタケルが「天皇」として多数登場。
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平帆⛵(ひらほ🔨) @hira_sail

が、同じ東国ですが、古代では、常陸国は東海道ルート、武蔵国は東山道ルートと認識されていました。 武蔵国では、鉄剣が出た埼玉古墳群(北部)の頃、多摩川沿い(南部)では古墳造営が下火になっていた気が。 何かの理由で交易ルートが変わった? @hira_sail

2016-05-11 08:48:30
平帆⛵(ひらほ🔨) @hira_sail

そういえば、以前に4C末に交易ルートが東海道から東山道に変わった件、ツイートしてました。 考古学的に裏付けがあるとすると(続) twitter.com/hira_sail/stat… twitter.com/hira_sail/stat… @hira_sail

2016-05-11 08:57:59
平帆⛵(ひらほ🔨) @hira_sail

『東国の古墳と大和政権(大塚初重)』 にも、古代の通行路(?)が、東海道(太平洋沿いから、海を渡って上総)から東山道(この場合、太平洋沿いに来て、天竜川で信濃に入ってから群馬に抜ける)に変わったらしき記述がある。時期的には、4C後半とか5Cとかのようです。

2015-05-16 20:57:15
平帆⛵(ひらほ🔨) @hira_sail

このあたりを境に、相模川沿いの古墳が作られなくなる(『古墳(土生田純之)』)らしい。多摩川沿いの荏原台の古墳群もこのあたりで終わることからすると、ヤマト王権の東国経営ルートが変わったのでしょうか。東海道メインだったのが、東山道メインに切り替わるのは、割と確立された見方のよう。

2015-05-16 20:59:52
平帆⛵(ひらほ🔨) @hira_sail

交易ルートが切り替わって、常陸諸国や、武蔵諸国では多摩川流域がヤマト王権からは「遠く」なり、武蔵北部の埼玉古墳群のあたりが、ヤマト王権から「近く」なったとすると、「河内王朝」の大王達は、常陸国からは「遠い」存在であったことになります。 @hira_sail

2016-05-11 09:08:00
平帆⛵(ひらほ🔨) @hira_sail

古事記、日本書紀の大王達には、実在が疑われる大王も沢山いますので、ことはさほど単純ではないのでしょうけど(続) @hira_sail

2016-05-11 09:12:50
平帆⛵(ひらほ🔨) @hira_sail

継体後なのか、考徳後なのかに再びヤマト王権と「近く」なった際に、伝承に残っていた大王名を選んで、地名説話と紐付けたことは、もしかするとあり得ることなのかも。 @hira_sail

2016-05-11 09:15:34
平帆⛵(ひらほ🔨) @hira_sail

東国諸国とヤマト王権の関係は、幾重にも重なって、近くなったり遠くなったりしながら進んだ気がしてきました。 @hira_sail

2016-05-11 09:16:55