- takehiro1010
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「わずかな例外は別として、数の優勢な方の部隊にこそ勝利は保証されている。それゆえ戦術は、闘おうと思う地点に赴いた時、どうすれば敵軍より数においてまさっていることができるか、ということを考えるに在る。」
2016-07-03 00:59:52「君の軍隊が敵の軍隊よりも数において少ないならば、敵にその兵力を集める暇を与えず、移動中の敵を襲撃するがよい。」
2016-07-03 01:00:24「そしていろいろな軍団を巧みに孤立させて、それらの孤立させられた軍団の方へと迅速に赴き、いかなる遭遇戦においても君の全軍を敵の数箇師団に差し向けることのできるような具合に機動するがよい。こうすれば敵軍の半数の軍隊をもってしても君は常に戦場では敵よりも強いであろう」
2016-07-03 01:00:341800年マレンゴの戦い。アルプス越えの後のマレンゴの戦いでは致命的な判断ミスでナポレオンは敗北寸前。
2016-07-03 01:01:25それを救ったのはドゥゼ師団が援軍として到着した事とケレルマンの騎兵隊による敵左翼への突撃であった。しかし後年ナポレオンは自分の判断ミスを敵を誘い出すための計画の一部だったと歴史を改竄した。
2016-07-03 01:01:421805年ウルム・アウステルリッツの戦い。北方戦線はプロイセンが参戦しないことを見越して一旦放置し、イタリア戦線はマッセナによる牽制とアルプス山脈の障壁により連合軍が北上して合流するまでは時間があるだろうということで放置。
2016-07-03 01:03:26先ず目の前のオーストリア軍に集中し、後方のロシア軍と合流する前に叩く、次に後方のロシア軍に集中し叩く。
2016-07-03 01:03:48実際、ウルムでオーストリア軍に完勝し、その後補給線が延び切ってピンチになるが、アウステルリッツでロシア軍とオーストリア軍の残軍の連合軍に完勝する。
2016-07-03 01:04:45ただし、機動力の勝利の典型と言われるウルム会戦、実はナポレオンの判断ミスで進撃し過ぎて、気付いたら敵を追い抜いてしまっていて、あわてて引き返したら、偶然、敵軍を完全包囲していて勝利したに過ぎない。
2016-07-03 01:05:02ウルムでのナポレオンによる包囲機動が成功し、アウステルリッツでの連合軍による包囲機動が失敗し逆にナポレオンに中央突破された理由。前者は戦略レベルでの機動であり自軍の翼面を墺軍に晒すことはなかった。後者は戦闘中の戦術レベルでの機動でありナポレオンに自軍の翼面を晒してしまった。
2016-07-03 01:05:081806年イエナ・アウエルシュタットの戦い。アウエルシュタットの戦いでフランス第3軍団のダヴーが「2倍」のプロイセン軍に勝った方法は"揺さぶり"。
2016-07-03 01:06:38プロイセン軍の右翼が弱いとみて、まず右翼を集中的に攻める。プロイセン軍の左翼が右翼の救援に向かうと、今度は左翼を集中的に攻める。プロイセン軍はこの揺さぶりに疲弊し動きが散りじりになり遂には撃破された。
2016-07-03 01:06:57プロイセン軍は指揮系統が統一されておらず、こうした揺さぶりに弱いと見抜いたダヴーの判断が当たった。ダヴーは士官学校におけるナポレオンの1年後輩で、軍事的才能だけだったらナポレオンと同等といわれている。
2016-07-03 01:07:111807年アイラウの戦い。何百キロと行進させたイエナの戦いの勝利後、そのまま寒い寒いドイツ北方に大した補給もせずに軍を駐留させて、さらに続け様に厳冬下の2月にロシア軍と兵士を戦わせた。
2016-07-03 01:08:05案の定この状況下では「皇帝陛下万歳」って叫ぶ兵士の声は何かシラケていて、中には面と向かってナポレオンを侮蔑する近衛兵もいた。
2016-07-03 01:08:12露軍側面を衝く作戦が伝令が捕虜になり露軍にバレる。小競り合いから予定外に会戦に突入。中央オージェロー師団が吹雪で道に迷い露軍正面に側面を晒し砲撃を受け崩壊、ミュラ騎兵師団の突撃で何とか立直し。ネイ師団が仏軍左翼に到着して何とか引き分けに。実質的に初黒星。
2016-07-03 01:08:371807年フリートラントの戦い。ナポレオンが自軍の数的優位を有効活用する戦い方をやっと会得したのが初戦のツ-ロンの戦いから14年目の1807年のフリートラントの戦いであった。
2016-07-03 01:09:59ずっと数的劣勢を跳ね返す挑戦者の戦い方をしてきたナポレオンにはいざ圧倒的に数的優位に立つ自軍をどう活用すべきかよく分からなかった。挑戦者の戦い方と王者になってからの戦い方は違う。
2016-07-03 01:10:061809年ワグラムの戦い。ダニューブ河をロバウ島北側から渡河すると偽網し東側から深夜に渡河。右翼のダブー軍団は墺軍左翼に攻勢をかけ、左翼のマッセナ軍団は背後に機動しようとする墺軍右翼を阻止。
2016-07-03 01:11:15手薄になった墺軍中央に百門の砲列で砲撃、仕上げにマクドナルド軍団の歩兵が墺軍中央を突破し撃破。
2016-07-03 01:11:211812年ロシア遠征。進軍してくるナポレオン軍の食糧現地調達を困難ならしめるため自国の農村を焼き払う焦土作戦を計画的にロシア軍は行ったと言われているが、事実は異なる。
2016-07-03 01:12:06兵士の圧倒的多数が農奴出身者のロシア軍ではそのような作戦は採用できず、散発的にコサック兵による農村の略奪があったに過ぎない。
2016-07-03 01:12:28ナポレオン軍が60万で出発しながらモスクワ到着時には9万5千に激減したのは、フランス軍といいながら2/3は外国人部隊で脱走兵が多かったこと、途中の会戦で多数の死者が出たこと、ナポレオンの考えた補給システムがダメだったことによる。
2016-07-03 01:12:41要するに、ロシア軍に計画的な焦土作戦などなく、勝手にナポレオン軍が自滅していったというのが真相。
2016-07-03 01:12:471815年ワーテルローの戦い。12時。前夜の雨のため昼過ぎに攻撃開始。イギリス軍の注意を中央から逸らすため、左翼ジェロームがウーグモン農場のイギリス軍右翼を攻撃。すかさず中央デルロン歩兵師団がイギリス軍中央を攻撃。しかし拠点地ラ・エー・サントの奪取を怠りデルロン師団後退。
2016-07-03 01:13:27