ちょっとメモ。日本における養蚕のはじまりは北九州(福岡のあたり)、立岩遺跡などより平絹(剣の柄、鏡の房など)が発掘され、それ以前の遺跡より発見されていないことから、時代としては弥生時代中期頃と想定されるらしい
2011-02-12 20:14:51その蚕の渡来ルートは中国本土、楽浪からの三眠蚕である可能性が高い、というのが繊維断面積の測定データから得られた考察である。なお、それが朝鮮半島をたどったのか、直接日本に来たのかは定かではない
2011-02-12 20:16:23また、北九州山間部には1970年代辺りまで、繭からそのまま真綿にすることなしに糸を紡ぐ、最も原始的な紡績法があったとか。これが弥生時代よりの伝統かは分からないが、相当古い歴史があることも確かである
2011-02-12 20:18:04「魏志倭人伝」によると、三世紀ごろには養蚕技術だけでなく布を織る技術も進歩し、結構な質の織物が魏帝へ献上されていたらしい。興味深いのはその献上品の中に「絳青縑」という、絳(赤)と青の糸を縦横に使い分けたと思わしき絹布があることか
2011-02-12 20:20:45なお、品目の中には異文雑錦というものがあったことから、何種類からの色の糸を用いて文様を紡ぎだすという、ある種の繊維デザインも行われており、これは正倉院にある赤地山菱文錦の系譜に連なるものではないか、と言われている
2011-02-12 20:21:54@haruna_nowaki この書籍では、筆者が染色は専門外という事でそこまで言及はされていませんが、かなり古い時代から「染色」というものが存在したことは事実のようです
2011-02-12 20:25:03なお、須玖岡本遺跡から重圏四乳葉文鏡面に着いた房の芯部が藍に、外周部が朱に染められたものが発掘されたことから、すでに弥生時代後期にはすでに「染色」というものは存在したらしい
2011-02-12 20:32:36@Type10TK 中国において、後期新石器時代には養蚕の原型がおこなわれた可能性がある事から、かなり古い時代より染色があったことは確かなようです
2011-02-12 20:37:29@die3035 そういう技術とかは、我が国ではあまり進んでなかったイメージがありますからねえ…。いやまあ、中国とかギリシアとかが進みすぎてたって面もありそうですが。
2011-02-12 20:41:31@die3035 ヨーロッパの方じゃ、絹製軍旗の光沢を恐れて敗走した軍があったような…。何にせよ、中国は凄かったですからねえ。
2011-02-12 20:55:04はてさて古墳時代初期になると、北九州だけでなく、九州から関西あたりの広い地域にかけて養蚕・紡績が広まることになる。ただ、質の面ではやはり北九州、一貴山銚子塚古墳から出土したものが最も多様性に富み、織り技術も高いものだったらしい
2011-02-12 21:18:21このあたりには、弥生時代から受け継がれてきた蚕種と、海外からもたらされた優良蚕種とが混ざり合って、交雑もかなり盛んに進んだようで、品質が多様化した時代でもあるとか
2011-02-12 21:21:10@naijel 純粋な系統としては、支那種一化性→支那種二化性→日本種二化性→日本種一化性という事になるようです。実際に遺伝子レベルの探索も行われているようですが、この書籍が少々古いためそれには言及されていません
2011-02-12 21:27:23古墳時代中期・後期になると養蚕は関東あたりまで広まり、稲荷山古墳では織具の石造模造品が出土されたりと、日本における繊維産業の聡明期になっている。ただ、この時代の織具に関連する出土品はこれを除いて存在せず、弥生~奈良時代間の織具の進化は議論の的らしい
2011-02-12 21:28:49また、この時代には農桑に関することを巡って蝦夷に対し日本武尊が出征する事態が発生したり、養蚕機織に通じた渡来人が多く来朝したりと、養蚕が国の重要な産業として認識されていたことが伺える
2011-02-12 21:31:50