終戦叛乱事件についての四方山対話

終戦記念日の0時を挟んで交わしたフォロワーの林枯山 ‏@hayashicosan さんとの対話をまとめました。複雑かつ広がりの大きな事件故、このようなまとまりのない仕儀ですが、備忘代わりに認めました。 もしもお気づきの点があれば削除含めて対応いたしますのでよろしくお願いいたします。
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林古參(元『林枯山』) @hayashicosan

鈴木と阿南を腹藝の人と云ふけれど、鈴木は徹頭徹尾に誰にも自分の眞意を漏らさなかつた。記録を丹念に讀めば、鈴木の周圍は鈴木が本當に何を考へてゐるか分からないままだつた。阿南は違ふ。その場で注意深く内意や情報をの部分切り分けながら與へてゐる。二重人格の如き策謀家の振舞である。

2016-08-14 22:55:47

鈴木とは敗戦当時の総理大臣鈴木貫太郎である。
鈴木は戦後浩瀚な回想録を残すが、軍令部総長就任後敗戦までの記述が急速に具体性の薄い不思議なものとなる。
はっきり言って、自ら前線に立った日露戦争の武功自慢みたいな本なのだ。
好意的にとればサイレントネイビーの伝統に忠実ならんと欲したともみえるが______

一方阿南は手記の類を一切残さない。彼の片言隻語を拾って有難がるのが戦後いる程度である、それもほとんどが幼年学校での訓示のような深い人間洞察に使えるものではない。

林古參(元『林枯山』) @hayashicosan

私は昭和20年8月14日深更から開始した陸軍最後の叛亂事件を、阿南陸軍大臣見事な最期でございました調の物語で御仕舞にする氣は全くない。

2016-08-14 23:31:13
ゆ㌖ず㌖こ㌖せ㌖う@手㌖洗㌖い @yuzukoseuG

阿南 惟幾は初代の兵務局長である。226事件の結果将兵の行動を統括するために人事局と別に作られた役所であり憲兵を支配下に置いた。その彼が会ったこともない暴発上官殺害犯のために腹を切る必要がどこにあるのか。当時の那須局長に鎮圧を命じればすむだけである。腹はその後で切ればいい。

2016-08-14 23:53:13
林古參(元『林枯山』) @hayashicosan

あの事件を美談調にすればするだけ、もつとドス黒い何か別の思惑が透けて見える。近衞師團長殺害容疑の大尉を取調べもせずに、自決させた憲兵司令部の異常な行動などは、その一部に過ぎない。

2016-08-14 23:32:13
林古參(元『林枯山』) @hayashicosan

師團長の印鑑を紛失すれば、副官が詰腹斬らされても仕方が無い帝國陸軍といふ組織で、近衞師團長の象牙の印鑑は杳として行方が知れませんなどと書く師團長副官の記述もさうだし、一體全體誰が近衞師團長の慘殺屍躰を檢死もさせずに燒却させたか命令した人物すら分かつてゐない有樣である。

2016-08-14 23:37:55
ゆ㌖ず㌖こ㌖せ㌖う@手㌖洗㌖い @yuzukoseuG

終戦前夜の反乱事件では自決など関連死を含めて9名に上る。空襲はあれども最前線ではない軍の中枢近くでこれだけの死者である。一部の暴発、重責による死と片付けるのはあまりに重大すぎる事件と言える。

2016-08-15 00:30:23
ゆ㌖ず㌖こ㌖せ㌖う@手㌖洗㌖い @yuzukoseuG

@hayashicosan 喜八版映画を見て異様なのは死んだ森師団長の霊前で古賀参謀が自決しているシーン。いつだれが森以下を荼毘にふせたのか?阿南、畑中、椎崎は翌日一晩かけて市ヶ谷で焼かれてるのにである。

2016-08-14 23:41:03

森赳師団長と白石西部軍参謀の惨殺事件が発生したのは近衛師団司令部ライトウィング一階端の師団長室である。
現在は国立近代工芸館として使われているが、残念ながら犯行現場の部屋は工芸館事務方のバックヤードという名目で一般入館者は見ることとは叶わない。
ただそのすぐ上の二階は展示スペース拡張のために壁をぶち抜きにしたのを除けば当時の構造を顧みることができる。
もともと2階だった師団長室、参謀長室が一階に移ったのは空襲対策のためで昭和20年に入ってからだった。
師団長室の広さは和室換算で10畳敷くらいである。ここにデスクと応接セットがあったと推測されるが、大人五名が大立ち回りをやれる程度の広さはある。

林古參(元『林枯山』) @hayashicosan

@yuzukoseuG 諸資料を附き合せると、15日0100から近衞師團司令部廻りで圖の樣な事が起つてゐます。佐々木少尉に指示したのは川崎中尉の樣です。但し、未だに黄色の部分は誰が行動したのか分かりません。 pic.twitter.com/yLAZbmBTuH

2016-08-14 23:54:00
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ゆ㌖ず㌖こ㌖せ㌖う@手㌖洗㌖い @yuzukoseuG

@hayashicosan 兵がボイコットしたので納棺には自分一人でやったという井田(岩田)正孝の記憶も少しおかしなものがあります。枯れも手は下したであろうことは間違いないのですが、兵もその後の荼毘には唯々諾々と従ってますし(おかげでガソリン引火でけが人まで出した)

2016-08-14 23:59:29
林古參(元『林枯山』) @hayashicosan

@yuzukoseuG 流石に部外者の井田の命令を唯々諾々と從ふとは思へません。殘念ながら想像でしかありませんが、屍躰處理を命じたのは消去法で石原參謀だと思つてゐます。不破參謀が石原參謀に睨まれたと記憶してゐるのは「汚れ仕事」を押附けた負目があるのではと考へてゐます。

2016-08-15 00:04:39
ゆ㌖ず㌖こ㌖せ㌖う@手㌖洗㌖い @yuzukoseuG

@hayashicosan 不破は自著の「東部軍終戦史」を防研に寄贈して事実上封印したことは知られていません。今でも当該書は複写不可というこの手の手記としては異例の扱いです。同じ東部軍で憲兵の塚本素山は疑いを隠せない。

2016-08-15 00:09:38
林古參(元『林枯山』) @hayashicosan

@yuzukoseuG 不破參謀の例の手記は、塚本少佐の手記と見比べると、興味深い所があります。現場に居る人ならば拘束される「見る」の記述が出てくるのが、石原參謀の場面だけなのです。後は見た樣に書いてゐても「見る」印象から赤の他人の目線で語つてゐます。

2016-08-15 00:16:04
ゆ㌖ず㌖こ㌖せ㌖う@手㌖洗㌖い @yuzukoseuG

@hayashicosan 不破が石原確保の場面のみを具体的に語るのは実際見たのと、当時は石原を主悪に仕立てようという思惑もあったかと読んだとき思いました。なにしろ石原は上野で直後殺されますから死人に口なしです。

2016-08-15 00:22:14
林古參(元『林枯山』) @hayashicosan

@yuzukoseuG さうですね。明らかに石原參謀を畑中參謀と同じ樣に仕立てたいと云ふ思惑がちらつきます。どうも不破參謀は14日の電話聯絡邊りの舉措からも怪しいものが目立ちます。

2016-08-15 00:26:26
林古參(元『林枯山』) @hayashicosan

單純な事實だけれど、15日の午前2時に遂に叛亂起つたなんて何處の全自動車化師團の話をしてゐるのか分からない事がある。云つておくけれど近衞師團と云つても基本は徒歩である。時速4~5Kmの移動速度しかない。移動速度を逆算したら事は數時間前に發生してゐる。この前提を知らないと間違へる。

2016-08-15 00:37:17
ゆ㌖ず㌖こ㌖せ㌖う@手㌖洗㌖い @yuzukoseuG

@hayashicosan 森師団長と白石中佐が夕涼みから帰庁したのが11時ごろというのが複数だから殺害決起をその直後にするとすっきり収まる。

2016-08-15 00:41:38
林古參(元『林枯山』) @hayashicosan

@yuzukoseuG 確かに、他の記録で出てくる、東部軍への近衞師團蹶起を知らせる14日の23時の通報も平仄がとれます。逆に云ふと午前2時説を頑なに押し通す人間が、何かを必死に隱したがつてゐる事が分かります。

2016-08-15 00:46:58
ゆ㌖ず㌖こ㌖せ㌖う@手㌖洗㌖い @yuzukoseuG

@hayashicosan阿南 惟幾の死も実際は検死された7時過ぎだと傍証から明らかですが、映画含めてみんな5時近くまで繰り上げてます。介錯なし一発で割腹で人間は死ねません。失血死まで苦しむか誰かが手を貸すのでなければありえない。

2016-08-15 00:55:32
林古參(元『林枯山』) @hayashicosan

竹下正彦中佐の記述には、拔け落ちてゐる出來事がある。それは8月14日夜頃に開催された永井軍務課長の送別會參加である。竹下正彦は戰後の記述では一貫として、8月14日は午後から畑中に起こされるまでは別館から一歩も動いてゐないと記述してゐる。この不整合に對しての疑問も晴れてゐない。

2016-08-15 00:59:24
ゆ㌖ず㌖こ㌖せ㌖う@手㌖洗㌖い @yuzukoseuG

@hayashicosan 白山通りを北進すればすぐ文京区の平泉澄邸。靖国通りに曲れば靖国神社を超えて市ヶ谷の陸軍省に至近です。

2016-08-15 01:07:32
林古參(元『林枯山』) @hayashicosan

@yuzukoseuG 推測は嚴に控へるべきですが、近衞師團長の殺害が豫想より早いとしたら、平泉邸に泊まつてゐた窪田少佐を迎へに行つたのは、下手をすると竹下自身の可能性すら出てきます。何もかも畑中少佐がやつてゐたら時間切れになります。

2016-08-15 01:12:27

窪田兼三少佐は水戸通信学校教官で白山の平泉澄邸に寄宿していた。現役の軍人が持ち場を離れて裏工作に励んでも咎めがないほどに軍の綱紀は弛緩していたのだ。

もう一人の上原重太郎大尉は埼玉県豊岡の航空士官学校(現航空自衛隊入間基地司令部本部近くに所在)からやってきた。
こちらも持ち場を勝手に離脱である。

窪田は凶行後近歩2の北畠大隊長にかくまわれた後、水戸に脱出水戸通信隊事件を扇動する。その後は完全に世間から姿を消し、故郷の鹿児島で暮らすが60年代に「日本の一番長い日」が世間の関心をひく中、サンデー毎日によってその存在をスクープされる。

上原はそのまま現場から東部軍のサイドカーで豊岡に逃れるが、航士生徒の扇動に失敗し、士官学校内の神社(現在は女子大のキャンパス内)にて死亡しているのが発見された。
自決と言われるが、士官学校長徳川好胤中将、憲兵隊による強要の線は疑える。これも1人自刃は難しいので「介添え」した者がいたのだろう。

ゆ㌖ず㌖こ㌖せ㌖う@手㌖洗㌖い @yuzukoseuG

@hayashicosan 渋井別館は御茶ノ水駅近く(現ろうきんビル)ですが車で移動の便はよいところですね。

2016-08-15 01:03:11