後漢王朝豪族連合政権論とは? 光武帝の建国した後漢王朝は豪族の連合による政権なのか?
- mamesiba195
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以上がその内容です。五井直弘の論文は、後漢王朝が豪族連合政権であることを完全に否定するものではなくなり、光武帝にしても豪族の協力を得ていたとしています。ここで、私の個人的な見解による便宜上の区分けた表を添付しておきます。 pic.twitter.com/xoHaO3K4wq
2016-08-29 00:57:26# その6 90年代における後漢王朝豪族連合政権論に対する議論について
続いて、東晋次「後漢時代の政治と社会」(1995年)における光武帝期の豪族政権論に対するとらえ方を紹介します。この論文は、1993年に提出されていますが、紹介該当部分の基礎は「後漢初における皇帝支配と外戚・諸王」は1975年ですので、先に紹介します。
2016-08-29 00:58:38紹介内容は、第一章第一節の部分にあたります。 amazon.co.jp/%E5%BE%8C%E6%B…
2016-08-29 00:59:16内容は次の通りです。光武帝は、前漢・宣帝の『循吏を駆使して豪族層を懐柔した』統治理念を踏襲した。後漢王朝では、豪族の地方における勢力を利用して統治せざるを得なかった。すでに力をもって豪族を屈服させることができない段階に達していた。
2016-08-29 00:59:47豪族出身者の光武帝は、地方における豪族社会を認めながらも、循吏を駆使して皇帝支配体制の強化を図った宣帝の政治方針に倣った。また、光武帝は法を政治の基本と考え、政治の運用は、法に力を置き、文吏を重用した。
2016-08-29 01:00:24以上がその内容です。続いて、渡邉義浩「後漢時代の支配と儒教」(1995年)(1991年に提出)を紹介します。紹介内容は第二章からです。 amazon.co.jp/%E5%BE%8C%E6%B…
2016-08-29 01:01:01後漢王朝を樹立した光武帝は南陽豪族の出身であり、功臣の多くも豪族の出身であるが、豪族政権という言葉は概念が不明瞭である。また、私権力である豪族と唯一無二の公権力である国家を併置して国家の性質を表現することは問題がある。
2016-08-29 01:01:32在地勢力の規制力は、一般的に大土地所有と族的結合力に求められるが、後漢時代の豪族は「清」など儒教的理念による名声を糧に、郷挙里選などに反映されていたと考えられる。そのため、史料を見て後漢政権の三公などの枢要官を分類化し、表にして傾向を図ることにした。(分析は論文を見てください)
2016-08-29 01:02:27結果、後漢政権の枢要官は「清」「貧」と表現されても多くは豪族の出身であると分かった。豪族政権論が「後漢国家の官僚は豪族層の出身であった」と捉えていることは間違いではない。その反面、後漢王朝は、官僚を儒教の徳目よって、王朝に都合のいい存在に変えようとしていた。
2016-08-29 01:02:58後漢では、初期は功臣が、中期は外戚が枢要官の中心となったが、中期以降は儒教的官僚が台頭した。儒教の「家学」を持つ儒教的官僚は、郷挙里選などで門生・故吏の支持を生みだし、代々高官に至るような門閥家傾向を示した。後漢王朝は豪族層を儒教的官僚とし支配層に組み込む構造を有していた。
2016-08-29 01:03:34以上がその内容です。90年代に至っても、東晋次は、かなりの豪族政権論よりであることが分かります。また、渡邉義浩は後漢王朝の豪族政権論の言葉の定義を「後漢国家の官僚は豪族層の出身であった」とした場合は認めています。
2016-08-29 01:04:12ここで、簡略に、まとめた表は添付しておきます。(区分は私の個人的な見解による便宜上の区分けです) pic.twitter.com/4e1iGU93bP
2016-08-29 01:04:51# その7 21世紀における後漢王朝豪族連合政権論について
続いて、21世紀に入ってから書かれた、小嶋茂稔「河北における劉秀集団の確立過程——後漢政権成立史のための覚書」(2002年)を紹介します。内容は以下の通りです。spc.jst.go.jp/cad/literature…
2016-08-29 01:06:25光武帝は南陽劉氏の出身である。皇帝に推戴された更始帝を頂点とした南陽劉氏によって王莽政権は打倒された。南陽劉氏は光武帝以外、更始帝からの独立行動が見られず、更始帝を支持していたと見られる。また、光武帝の皇帝即位後も、更始政権崩壊後も南陽地方では光武帝に対して相当な抵抗を見せた。
2016-08-29 01:07:20そのため、後漢政権の成立過程では、南陽との過剰な政治的結合を想定することは、今後は揚棄されるべきである。また、光武帝の河北行きに同行したのは潁川出身者が中心で、河北でも在地の豪族層ではなく、豪族を影響下においた地方官が、掌握している統治機構を付随させて光武帝を従った。
2016-08-29 01:07:54河北地域が安泰でない段階で、光武帝が更始帝から自立できたのは、河北一円の、前漢期に充実を遂げた地方社会の統治機構を手中にして、把握したためである。郡県制が浸透してきた後漢建国段階では、豪族を糾合するのでは不十分で、地方官を従属させる必要があった。
2016-08-29 01:08:31以上がその内容です。最後に、同じく小嶋茂稔「建武度田政策始末攷(上):後漢の建国期における国家と社会」(2002年) ci.nii.ac.jp/naid/110001074…
2016-08-29 01:09:37同「建武度田政策始末攷(下):後漢の建国期における国家と社会」(2003年)を紹介します。ci.nii.ac.jp/naid/110001074…
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