後漢王朝豪族連合政権論とは? 光武帝の建国した後漢王朝は豪族の連合による政権なのか?
- mamesiba195
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しかし、日本における後漢王朝の「後漢豪族連合政権説」はこの論文の該当部分が浸透し、定着したようです。上記小嶋論文では、『後漢=豪族連合政権論を決定付けたのは、西嶋定生氏であった』。
2016-08-29 00:34:17上記渡邉注釈では、『西嶋説以降、後漢国家を「豪族政権」と理解することが、定説化された感がある』と論じています。
2016-08-29 00:34:52また、後で紹介する東晋次「後漢時代の政治と社会」(1995年)では、第一章のまとめで、『しかしこの西嶋旧説は撤回されたから、後漢国家のこうした捉え方は現在では継承されていない。しかし、後漢時代における豪傑の成長や国家による豪族弾圧の不履行、
2016-08-29 00:35:28中央・地方における豪族出身者の官吏ポストの独占などから、西嶋氏のようなイメージを後漢国家に対して抱くことも往々にしてあり得たことは否定できない。』と論じています。amazon.co.jp/%E5%BE%8C%E6%B…
2016-08-29 00:37:02一応の結論は付いたので、主要な議題はここで終わりです。簡略に、まとめた表は添付しておきます。(区分は私の個人的な見解による便宜上の区分けです) pic.twitter.com/317aDBwFzj
2016-08-29 00:38:04# その5 後漢王朝豪族連合政権論に対する反論について
西嶋説に反論したのは、河地重造「赤眉の亂と後漢帝國の成立について」(1953年)です。http://157.1.42.1/author/DA01442241
2016-08-29 00:39:16河地重造は、赤眉の乱に注目し、王莽政権はあくまで豪族・農民ともに圧迫する政権であり、民衆は積極的でないにせよ漢室復興を願い、光武帝は豪族・民衆双方への配慮を行っており、後漢王朝は民衆からも強い支持があったと論じています。
2016-08-29 00:39:54また、赤眉は三老などを構成する土豪に率いられた豪族に服属していない農民集団であり、あくまで対立は豪族と小農民との間のことで、赤眉の蜂起と漢室復興の願いが、豪族層の王莽政権への離反と、(豪族連合政権の性格が強いにせよ)専制君主である光武帝への服従を促したとしています。
2016-08-29 00:40:31続いて、五井直弘「両漢交替期の叛乱」(1953年)も西嶋説に反論しています。 lib.shizuoka.ac.jp/shiryo/mokurok…'
2016-08-29 00:41:09これは、「漢代の豪族社会と国家 (歴史学叢書) 」に収録されているので、比較的入手しやすいです。内容は以下の通りです。 amazon.co.jp/%E6%BC%A2%E4%B…
2016-08-29 00:46:03前漢の中頃からの鉄器や灌漑技術の発達によって、豪族層が生まれ、様々な矛盾が生じていた。王莽政権は貨幣や土地所有の改革に失敗し、利権を侵害された豪族・困窮した農民はそれぞれの理由で叛乱を起こした。そのため、後漢末の叛乱軍は主体が違う2グループ(豪族、農民)に分類できる。
2016-08-29 00:46:38光武帝は、叛乱初期は財力や勢力に恵まれておらず、豪族が強い南陽出身ではあることを理由に、巨大豪族とはいえない。光武帝は自主性のない小豪族を基盤として、まず銅馬など農民軍を討伐し、指導者を列侯に封じ、農民軍を吸収していき、群雄を形成してい巨大豪族を打倒し、統一を果たした。
2016-08-29 00:47:14光武帝に従ったものは、下を抑えつけ発展する力をもたない依存心が強い人間ばかりであり、後漢が豪族を抑制しなかったのはその必要がなかったためである。豪族は官僚となってのみ、勢力を拡大することができた。後漢は土地や人民への直接支配を強力に行った。もう少し史料をあたってみたい。以上
2016-08-29 00:47:48このような反論が行われましたが、反響を呼びませんでした。上記小嶋論文においては、この後も『後漢=豪族連合政権論自体は結局その後も有効性を保ったことは率直に認めざるを得ない』とし、その理由として①1960年代に秦漢史研究者の関心が戦国期や前漢に移ったこと、
2016-08-29 00:48:27②谷川道雄・川勝義雄らの「豪族共同体論」が提起され、後漢時代を魏晋南北朝時代への過渡期として捉える傾向が強くなったこと、を挙げています。つまりは、両漢交替期への学会の関心が極めて薄れたわけです。
2016-08-29 00:49:10学会では、その後も西嶋定生から新説も出され、増淵龍夫・浜口重国・尾形勇・木村正雄らによって活発な議論が行われたのですが、これは本議題と全て直結するものするものではないので省略します。
2016-08-29 00:50:02その議論を受けて、後漢=豪族政権説を否定した五井直弘が再び論じたのが、「後漢王朝と豪族」(1970年)です。(「漢代の豪族社会と国家 (歴史学叢書) 」に収録)。なお、前ツイートの議論の概略は、当論文の「はじめに」に記述されています。
2016-08-29 00:51:23内容と以下の通りです。赤眉が急速に大集団に膨張し、大移動を行えた背景に、商業と結びついた遊侠の徒と流亡者が中核となったことによる。また、光武帝は南陽と河北の豪族の援助を得て再興したのは間違いないが、豪族連合政権という規定は曖昧であり、再検討する必要があると思われる。
2016-08-29 00:52:18光武帝のいた南陽豪族を見ると、豪族は、近隣では相互に対立し、他地域の豪族と婚姻を結んでいたことが分かる。この点、遊侠や流亡者と同様に、郷里を越えた結びつきを持つ豪族は、遊侠や流亡者を参加におさめ巨大化する要因を持っていた。
2016-08-29 00:53:19郷里において、力を持った豪族は父老として郷里の世論を統括し、政府官僚を輩出した。そのため、前漢終わり頃から豪族出身者が中央・地方官を独占することになる。また、鉄器農具を自己に集中して農地を開発し、農民を圧迫し、富を自己に集中させた。
2016-08-29 00:53:56農民は豪族に従うか、流亡するしかなくなり、そのため、後漢時代には、豪族の土地を借りた仮作(小作)が一般的になり、一般農民も収奪の対象となった。牛や多人数を要する農耕技術の発達も豪族しか実行しえず、豪族は発達し続けた。
2016-08-29 00:54:33流民は増加し、そのために豪族も危機に陥ることが増え、豪族はさらに中央政府への進出をはかるようになった。豪族は地方では政治の実権を握ると同時に、政府に依拠し、政治の実権を巡って互いに対立した。『天下をもって家となす』漢家(漢王朝)は官僚を客人と捉えており、統制できなかった。
2016-08-29 00:55:05