後漢王朝豪族連合政権論とは? 光武帝の建国した後漢王朝は豪族の連合による政権なのか?
- mamesiba195
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『私見であるが、こうした後漢時代史認識は、1960年代から70年代にかけて盛んだった「六朝貴族制」社会をめぐる論争を経て、後漢=豪族連合政権論と共に、我が国の中国史学会で広く受容されるようになったと言える』
2016-08-29 00:14:15『以上、要するに(略)後漢ではあるが、中国史理解の大勢においては、単なる衰退期ないしは一種の過渡期としての位置づけしか与えられていない』
2016-08-29 00:17:06そこで、その後に、上記小嶋論文において展開される『後漢=豪族連合政権論が共有されるに至った経緯』と『かつてなされた豪族連合政権に対する批判』について、上記小嶋論文では、参照されていない論文も含めて、概略を紹介します。
2016-08-29 00:17:55# その4 後漢王朝豪族連合政権論学説定着の経緯
後漢豪族連合政権論の発端は、楊聯陞『東漢的豪族』(1936年)です。この論文は、前漢時における豪族の発展と、光武帝が南陽豪族であること、その功臣の多くが豪族出身であること。後漢時代の豪族の政治経済における優位性を説いたものです。zh.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A…
2016-08-29 00:19:57特に『光武帝国的建国、是地主政権即豪族政権的確立』(光武帝の(後漢)王朝は、地主(大土地所有者)による政権であり、豪族による(連合)政権が確立したことということである)と断言するもので、日本にも大きな影響を与えました。
2016-08-29 00:20:48これに一部、反論したのが宇都宮清吉「陳嘯江『魏晋時代の族』及び楊聯陞『東漢的豪族』に対する書評」(1938年)です。 kotobank.jp/word/%E5%AE%87…
2016-08-29 00:21:52宇都宮清吉は、後漢では「賓客」が戦時では従軍したことや、光武帝創業の基礎には豪族の支持があったこと、後漢は前漢に比べ、政治は豪族出身の官僚が多いことなどには、楊聯陞に同意しました。
2016-08-29 00:22:27しかし、皇帝を最高権力とする官僚政治は強く働いて官僚も門閥豪族に限るものではないこと、豪族出身の官僚も後漢の政治力を強くさせる方向で活動しているものが相当にいること、官僚がよく豪族勢力をおさえていた、と反論し、
2016-08-29 00:23:01後漢は前漢よりは政治力が衰退し、次第に豪族の力が進展したと考えざるをえないが、豪族の力は魏晋時代にはるかに及ばず、政治力の衰退が決定的となった宦官専制の時代に至って豪族の動きも盛んになった、あくまで門閥豪族の成立ではなく、その過程的状態として成立したと結論づけています。
2016-08-29 00:23:42また、同じく一部反論しながらも、ある程度、楊聯陞の意見に沿ったのが、守屋(吉川)美都雄「後漢初期に於ける豪族対策に就いて」(1939年)です。 ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88…
2016-08-29 00:24:57守屋美都雄は、楊聯陞に反論し、後漢の田祖を30分の1と軽減する初期の政策などが豪族を利するためのものではなく、民を益するものであったこと、そのため流亡の民の土着や民の豪族からの離脱が行われて後漢初期は墾田や戸数が増加したであろうと、論じています。
2016-08-29 00:25:32また、建武15年(39)の光武帝による後漢王朝の全国戸口田畝調査の実施にかかり、この時に豪族が農民を侵害したので、翌年に大規模な農民反乱が起き、豪族と癒着した官吏を処罰して天下に謝したとする楊聯陞の説(発祥は「廿二史劄記」の著者・趙翼の説)に反論しています。
2016-08-29 00:27:24実際は、後漢王朝の全国戸口田畝調査の実施の過程で、豪族と癒着した官吏の処罰を行ったが、翌年に利権を侵害された豪族を中心とした後漢に対する反乱が起り、その上で、豪族に妥協する形で、豪族抑圧を放棄したと論じています。
2016-08-29 00:28:02その上で、後漢は豪族政権ではなく、官僚制に基づく政治力はあったが、初期から豪族を無視できない政権であった。やむを得ぬとはいえ、光武帝の日和見な態度によって、後漢王朝の豪族抑制政策は消極的なものに方向づけられ、豪族の勝利に終わったと結論づけています。
2016-08-29 00:28:58戦後になり、後漢王朝が豪族連合政権であると主張したのが、西嶋定生「古代國家の権力構造」(1950年)です。リンク先でも分かる通り、戦後の中国古代史研究をリードする存在であった西嶋定生の影響力は多大でした。 ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF…
2016-08-29 00:29:35論文は、マルクス経済学の経済発展段階説の影響をうけ、秦漢帝国を古代帝国期の奴隷制とするものです。内容は以下の通りです。鉄器の発達により生産力で抜きんでた家父長(一族を率いる主)的土地所有者が非血縁者を家庭内奴隷や客員として吸収し、豪族を結成した。
2016-08-29 00:31:04豪族が小農民を圧迫し、小作による大土地生産が可能になったため、特殊な奴隷制度が生み出された。また、秦漢帝国では、従来の血縁による統治から、専制君主の非血縁者による官僚制に切り替えた。これは、家父長的奴隷所有者的性格を持ち、豪族と類似した支配機構であった。
2016-08-29 00:31:33国家にとって、豪族の存在は支配力を弱める要素であり対立的な存在であった。ために前漢は豪族を移住させ、地方官に弾圧させた。塩鉄も国家が独占し、抑商政策をとったのは豪族の力を弱めるためであった。国家にとって、小農民は搾取しながらも、守らねばならない存在であった。
2016-08-29 00:32:08しかし、次第に豪族の優勢に流れ、国家権力の回復をはかった王莽が豪族抑制政策をうちだした。しかし、王莽は豪族からの反撃を受けて滅亡し、豪族の代表である光武帝が政権を打ち立てた。豪族出身者が主要な官僚を独占し、ここに豪族連合政権的な性格を持つ後漢王朝が生まれた。
2016-08-29 00:32:41以上がその主な内容です。なお、この説は、現在では、マルクス経済学の経済発展段階説の前提そのものが疑問視されているため、異論はあるところであります。後に西嶋定生自身で撤回しました。(撤回といっても全て間違いとしたわけではなく理論の再構築を行うための前提の撤回のようです)
2016-08-29 00:33:39