徳川秀忠と豊臣秀頼~2人の「二代目」論/大坂の陣は、誰に責任があり、誰が主導権を握ったか?(「真田丸」を受けて)
- gryphonjapan
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※丸島先生の論考は、先行まとめと一部重複します
こちらのほうに、興味ある人は飛んでみてください。
「史実では、信繁が幸村と改名した事実はありません」 『真田丸』時代考証の丸島和洋氏による解説 - Togetterまとめ
家康は、あの後、のんびり鷹狩りしながら上洛していくが、その後を大軍なのに無理して高速で追いかける秀忠は見られるのだろうか? 見たいけど、ちょっと無理そうだな。
2016-10-09 21:20:51関ヶ原の戦後処理に際し、秀頼の責任論に発展することを危惧した淀殿は、片桐且元に家康への取次を指示しています。片桐且元が豊臣側の対徳川氏担当取次となったのは、こういう経緯に寄ります。その際、且元は家康の指示で加増をうけました。
2016-10-09 21:23:06清韓さん、口調から何から異常なまでにインパクトあったなぁ 演じる植本潤さんは #平清盛 にもご出演なさっていたそうで。しかも岩手出身だそうで(そこか 出番は少なくても多大なインパクトを残せる、#真田丸 で言うなら村上さんタイプの方だと思うのでまた来年以降も見たいです。
2016-10-09 21:24:33@a_ri_no_ri 家康「大軍がそんなに急いで来るな!」 秀忠「いいえ、聞きませぬ。父上にお任せしたら、戦はほどほどにしてヌルい条件で和睦してしまいます!」 というやり取りが見たい。
2016-10-09 21:24:50したがって、且元の立場はちょっと複雑です。豊臣秀頼の家老として領国仕置きを指揮し、家康との交渉役(取次)に任じられる一方で、徳川氏の家臣という側面ももったからです。足利義昭と織田信長双方に仕えた明智光秀と同じ形ですね。
2016-10-09 21:25:09ですから、且元の「徳川の禄も食んでいる」という立場を見落とすと、政治史状況把握が困難になります。またそもそも、且元ひとりでは豊臣家の運営は困難で、家康が任じた京都所司代板倉勝重の支援を受けて、領国仕置きを担っていました。豊臣の領国経営は幕府の支援なしには成り立たなかったのです。
2016-10-09 21:29:23それで肝心の「方広寺鐘銘事件」ですが、いまだに二次史料である『駿府記』から立論する方が多いのは少々困惑します。ここでまず抑えておくべきは、大工頭中井家関係史料と、金地院崇伝の『本光国師日記』です。
2016-10-09 21:31:04真田丸視聴者が「豊臣の深刻な人材不足」「ノウハウが死んだ」と口にするたびにわしの脳裏を掠める大内家。 日ノ本の対外貿易ノウハウは相良と共に死んだのだ…
2016-10-09 21:33:18ドラマで描かれていたように、且元は方広寺大仏殿造営について、家康に逐一報告をしており、家康も「それでよし」としていました。鐘銘については、頼朝による大仏再建の記録を踏まえるという報告を受け、喜んでいます。
2016-10-09 21:33:26この件は論点が多すぎるの絞りますが、雲行きが怪しくなったのは、大工中井家から家康に対し、奉納される棟札に「大工」である自分の名前がないという訴えがなされたことにありました。家康が「常識に反する」と不快に思っていたところ、鐘銘が「やたらと長い」と告げ口がはいったようです。
2016-10-09 21:35:31家康は大仏殿の鐘銘について、「後世に残るものである」「時の天下人が作ったものであると理解されていくだろう」「現在の天下人は家康なので、恥ずかしいものは作りたくない」「しかるに田舎者が書いたような悪文らしい」と、写の提出を命じます。したがって、「国家安康」は発端ではありません。
2016-10-09 21:37:40その後提出された鐘銘の写をみて、「御諱」が刻まれている点を特に不快に感じたとあります。しかし、私が戦国史研究会8月例会で報告したように、西国の戦国大名書札礼を継承した豊臣政権下では、「実名」を書くことが尊敬の念を示すものでした。拙著『真田信繁の書状を読む』158頁も参照。
2016-10-09 21:40:22そして幕府から詰問された文英清韓は、「国家安康と申しますのは、御名乗りの字を隠れ題にいれ、縁語(表現の面白みやあやをつける事) をとったものです」「君臣豊楽も、豊臣を隠れ題にいれました。こういう事例は過去にもございます」と「喜んで貰えると思って撰した」と素直に述べています。
2016-10-09 21:43:42この「「国家安康」は喜んで貰えると思って書いた」という話は、戦前から論文発表されていたはずですが、なかなか研究者の間でも共有されません。思い込みというのを糺すのは、本当に難しい。したがいまして、ドラマ中で文英清韓がとうとうと述べていたのは、史料を踏まえたものなのです。
2016-10-09 21:46:54ですから、片桐且元が困惑するのも無理からぬ話です。それどころか、これ以降の急速な事態の展開には、金地院崇伝や板倉勝重、本多正信も戸惑っている気配があります。
2016-10-09 21:48:28次に、片桐且元が「勝手に和解条件を考えた」というのも史実通りです。これにつきましては、曽根勇二『人物叢書 片桐且元』(吉川弘文館)をご参照ください。且元としては、敢えて幕府の姿勢を強硬なものと示すことで、豊臣を穏便な形で江戸幕府下の大名として存続させようとしたのでしょう。
2016-10-09 21:50:29しかし且元の策は裏目に出て、豊臣の「本丸衆」(大野治長等)から「徳川に内通していると疑われ、暗殺の危険を感じます。その結果、且元は大坂城内の屋敷に籠もり、秀頼・淀殿の出仕命令を頑なに拒絶します。
2016-10-09 21:52:27これに怒った秀頼が、「出仕しないのであれば大坂から退去せよ。そうしなければ屋敷を焼き討ちする」と通告したため、10月1日、大坂を退去して居城摂津茨木城に戻ることになります。
2016-10-09 21:53:34#真田丸 同感です。名胡桃城事件の頃から思っていたのですが、「真田丸」では陰謀で事件が起きるのではなく、意外に偶発や成り行きで起こっており、それに何とか対処しようとして道を誤っていくように描かれています。そういう点がうまいなと思います。 twitter.com/ka_ku_ta/statu…
2016-10-09 21:53:51#真田丸 方広寺鐘銘事件を「家康の陰謀」といったのはあくまでも信繁の主観で、家康自身はこういうときに定番の「しめしめ」といったほくそ笑みがないんですよね。だから家康はもしかしたら本当に「致し方がない」と残念がっているのかもしれない。うまい演出と演技だと思います。
2016-10-09 21:31:15問題は、且元が対徳川氏担当取次であったことです。小牧・長久手合戦の発端が、秀吉との交渉を担当していた家老を織田信雄が斬殺したことであることからも明らかなように、理由もなく取次を処断することは、宣戦布告と捉えられかねない危険な行動でした。
2016-10-09 21:55:58そこで秀頼は、京都所司代板倉勝重、さらには家康・秀忠に対し、「片桐且元に不穏な動きがあったため」と釈明をしますが、この展開ではお話にならない。家康は既に「片桐且元が大坂を退去したら出陣する」旨を定めていました。このあたりも、ドラマで描いていただいた通りです。
2016-10-09 21:57:44