個人的に読むためのメモ Misaki @bonchan1 さんのツイートから古代日本の民族的成り立ちなど 2016/3/2

個人的なメモ Y染色体ハプログループにみる日本原住民の遺伝的系統 古代神話とも関連した夏王朝から後漢にかけての中華王朝と古代日本の成立過程 初期天皇と後漢皇帝の諡号の対応関係 その他
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凡人のつぶやき @bonchan1

「あたかも縄文前期~中期の巨大遺跡が青森の三内丸山遺跡だけだった!」ように誤解されて巨大遺跡として残ったのは、三内丸山遺跡が保存に適していたからで、下北半島、津軽半島に守られ陸奥湾奥で、数百年に一度の大津波の被害を回避出来た立地条件にあった。

2017-02-28 10:09:37
凡人のつぶやき @bonchan1

三内丸山遺跡は周囲を低い山に囲まれ、脇を流れる河川は水源までは数㎞しかなく、河川が多くの土砂を堆積して埋めたり、土砂と共に遺跡を流してしまう事が無かった。本当にラッキーな遺跡だった。彼ら三内の住民は漁民から提供されたタコを茹でて食べていた。円筒状土器は彼らが製作し煮炊きに使った。

2017-02-28 10:13:34
凡人のつぶやき @bonchan1

中国の遼河文明圏の住民の遺伝子分布はY-N1が60%以上の高頻度ですが、なんと三内丸山遺跡などがある青森県人のY-N1の頻度は7%に上り、次いで四国の徳島県が2.3%と列島内では高頻度です。遼河文明圏から青森(正確には全国)にウラル系民族のY-N系統が流入している。

2017-02-28 10:20:16
凡人のつぶやき @bonchan1

ハプログループ「N」は25000年前~20000年前に東アジアから東南アジアの地域の何処かで発生し、ハプログループ「NO」から分岐してユーラシア~シベリアを横断して北欧フィンランドにまで到達しています。ウラル語民族です。日本人はウラル語民族(粛愼)とも交易していました。

2017-02-28 10:25:01
凡人のつぶやき @bonchan1

日本列島に発生したY-Dハプロタイプはユーラシア、オーストロネシア語圏など広範囲に拡散したが、その生殖能力の低さから新興遺伝子に淘汰され、日本列島、アンダマン諸島、チベット高原などに辛うじて残存した。アフリカ起源説はこの事が「うっとおしくてたまらない」勢力の説だろう。

2017-02-28 10:29:42
凡人のつぶやき @bonchan1

日本人が日本人たる由縁のY-D2・C1a・C3aは「共存・共生の民」だが、Y-O3a2c1などは「おらが日本の大将だべし」の遺伝子を持ち、支那独特の「お前のものは、俺のもの」の遺伝子を内包する。森友もそうだろうが、このO系一族の暗躍が日本列島を暗くする。消えて無くなれ!

2017-02-28 10:36:05
凡人のつぶやき @bonchan1

「竹書紀年」に、夏王朝(BC2207~BC1766)最後の帝・癸(キ)の21年、「商の軍が有洛を征し之に克つ。遂に(最後に)荊(ケイ)を征し、荊は降った。」と記される。漢代の「荊州」とは湖北省であり、「荊(けい)」は湖北省の稲作民である事が判ります。

2017-02-28 19:11:23
凡人のつぶやき @bonchan1

縄文人は熱帯ジャポニカ先行で後に温帯ジャポニカに転向したが、揚子江流域で熱帯ジャポニカが栽培され、湖北省では温帯ジャポニカが栽培されていた。東南アジア島嶼部で熱帯ジャポニカが栽培されていたのは、揚子江下流域の熱帯ジャポニカ栽培民がオーストロネシア語族海洋民と共に移住したからだ。

2017-02-28 19:16:25
凡人のつぶやき @bonchan1

「荊」も「楚」も同じ「いばら(茨)」を指し、荊は後の「呉」となる。「粤」と「越」も、「粤」は民俗名で「越」は政権名。「粤」は揚子江下流で熱帯ジャポニカを栽培し、「荊(=後の楚=呉)」は揚子江中流域で温帯ジャポニカを栽培していた。

2017-02-28 19:21:30
凡人のつぶやき @bonchan1

「粤」は名前に「越」を冠する政権を創り、「荊」は「楚」が政権名で、「史記」「漢書」は「呉」は「荊」だと記す。即ち、「荊」=「楚」=「呉」であり、秦氏Y-O1aの事を「呉系楚人」と言うのは、こういう根拠に基づくのです。共に華南の揚子江中流・下流域の稲作民だという事になります。

2017-02-28 19:26:18
凡人のつぶやき @bonchan1

「楚」は揚子江中流域、「越」は下流域で稲作をしていたが、春秋戦国時代(BC770~BC221)頃になると下流域の「粤」は居なくなる。何故か?☞ 「荊」の国の「呉」が下流域を支配し、夏王朝を形成した「荊」=「後の楚」は「粤人」を帝とした。つまり「荊」「楚」「呉」「粤」は同じ穴の狢。

2017-02-28 19:42:02
凡人のつぶやき @bonchan1

「荊(=楚、呉)」は揚子江中流域で、「呉」は下流域で「粤人」を帝として稲作をしていた。海洋民族の粤人と常時接触していた粤人政権の「越」は、内陸民(揚子江中流域)の「荊=楚、呉」よりも文化的に優位だったから夏王朝の帝になっても「荊」に抵抗は無く、夏王朝帝の粤人が中国全土を統治した。

2017-02-28 19:51:43
凡人のつぶやき @bonchan1

つまり、中国大陸では揚子江流域の長江文明の方が黄河文明より早く形成され、「荊=楚=呉」の上に海洋民族の「粤人」が帝として君臨し、中国全土を統治していた事になり、粟栽培の殷人大麦栽培の東夷は辺境異民族として夏王朝に同化するか、非同化異民族として独立していたかのどちらかだったはずだ。

2017-02-28 19:56:21
凡人のつぶやき @bonchan1

夏王朝以前の華北には、縄文時代後期温暖期前半期の城郭都市遺跡・「山西省汾河東岸・陶寺遺跡(BC2300~BC2000=塩湖・解池の北100㎞)」があり、城郭内部は王宮・外郭・倉庫・墓地・天文観測・祭祀用の壇・手工業用作業部屋・下層貴族居住区・庶民居住区などがあった。

2017-02-28 20:05:42
凡人のつぶやき @bonchan1

陶寺遺跡圏では山西省盆地で温帯ジャポニカ稲作をして解池の塩が豊かであり、貴族墓地からは「良渚文化」の「玉鉞・玉琮・玉壁」が出土し、良渚文化の後継文化があり、「荊」にもその影響が及んでいたと思われる。遺跡後期の溝から暴力的に殺戮された多くの壮年男性の頭蓋骨、人骨が出土(漢民族化)。

2017-02-28 20:13:35
凡人のつぶやき @bonchan1

関東の縄文人は縄文中期に揚子江を遡上して湖北省の「荊」と交易していたが、その荊が北上して淮河支流域を東進すると淮河支流をも交易航路とし、荊との交易を続けた。=夏王朝に沖縄産の高品質の宝貝(夏、周の貨幣)を交易し続けた。

2017-02-28 20:18:50
凡人のつぶやき @bonchan1

関東の縄文海洋民には全く無価値の沖縄の宝貝を夏王朝に「貨幣」として使い続けてもらうには、関東の縄文海洋交易民だけが独占的に「荊」と交易する必要があった。この沖縄産宝貝の交易は夏王朝滅亡後も1000年間後まで続いた。

2017-02-28 20:22:34
凡人のつぶやき @bonchan1

縄文時代早期(12000~7000年前)の遼寧省「査海遺跡」の「石製装飾品」や、縄文時代前期(7000~5500年前)の沿海州・「チョールタヴィ・ヴァロータ洞穴」の「石製装飾品」は、北陸の縄文人海洋民が提供した。これが古代日本人の事実です。日本民族は世界初の大海洋交易民となった。

2017-02-28 20:28:31
凡人のつぶやき @bonchan1

縄文時代後期(4500~3300年前)の黄河流域に北陸地方の縄文人が出現する事は、彼らの航海術を以てすれば当然の結果だった。夏王朝の東シナ海沿岸の玉器に内陸部遺跡よりも先進性があるのは北陸の海洋縄文人の影響であり、関東と北陸の海洋交易民同士の「商圏取り決め」が為されていた。

2017-02-28 20:33:50
凡人のつぶやき @bonchan1

粤人を帝とした「荊=楚・呉」は関東縄文人の海洋交易民を専らとして交易していたが、夏王朝や荊の統治思想は漢王朝に抹殺されたからよく判らないが、粤は後世に「百越」と呼ばれる分国制を採用し、荊の統治思想を学んだとされる「倭」も「大夫・大率」の職制と共に分国制を採用していた。

2017-02-28 20:38:53
凡人のつぶやき @bonchan1

「荊=楚=呉」は大陸奥地の民族で海洋民との日常的な交流は無かったから、海洋民の「粤」より中央集権的(=漢族の特徴)だったかも。「陶寺遺跡」の殺伐とした捕虜殺戮の様子から(ひょっとして人食用だったかも知れない)、荊には暴力的雑穀民の漢人に対抗する諸国軍を統括機能があったかも知れない

2017-02-28 20:44:42
凡人のつぶやき @bonchan1

夏王朝宮殿跡は洛陽盆地の「ニ里頭」のみで、宮殿からは玉璋・玉刀・玉斧などの宮廷儀礼用玉器、王権の宮廷儀礼の片鱗が見られる。酒器も多数出土し、酒を温めて香りを付ける器も出土し、青銅器の鋳造工房もあり、容器や武器も出土する。

2017-02-28 20:50:29
凡人のつぶやき @bonchan1

ツングース系の一部の民族はオーストロネシア語族民族の海洋民の如く、日本列島の縄文人海洋民の影響で造船や操船技術を身に着け、オホーツク海で海獣や魚を捕獲した。いわゆる「魏志倭人伝」にある「挹婁(ゆうろう)」である。

2017-02-28 20:54:21
凡人のつぶやき @bonchan1

「竹書紀年」の息愼、粛愼(しゅくしん、みしはせ)というツングース系民族は草原の交易者に留まらず、アムール川や松花江を航路とする船の交易民。縄文時代から原日本人はオーストロネシア語圏民族や粛愼とは交易を通して密接に関係する。okhotsk.org/news/oho-tukuj…

2017-02-28 21:00:48
凡人のつぶやき @bonchan1

中臣鎌足の母は大伴氏で越系。邪馬台国は「蛇」で且つ「鹿」族の国。犬・鰐・ホトトギスでもある。三輪の大物主神の子孫で若く猛々しい蛇神且つ雷神は建御雷神。大田田根子は崇神帝に滅ぼされた邪馬台国の後裔で三輪大物主神の子孫であり、鹿島神宮の建甕槌(建御雷)神の子孫。三輪神=建御雷神。

2017-02-28 21:12:13
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