個人的に読むためのメモ Misaki @bonchan1 さんのツイートから古代日本の民族的成り立ちなど 2016/3/2

個人的なメモ Y染色体ハプログループにみる日本原住民の遺伝的系統 古代神話とも関連した夏王朝から後漢にかけての中華王朝と古代日本の成立過程 初期天皇と後漢皇帝の諡号の対応関係 その他
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凡人のつぶやき @bonchan1

「記紀」は渡来系弥生人の出雲越人(文・漢人)の歴史の事しか書いてないので、日本人の本当の歴史は永久に判らない。文献書物や系図も全て破棄されたからだ。今後新資料が出て来るのも期待薄だ。「記紀」は呉人・越人・呉系楚人の弥生渡来人(江南系)の事ばかり書いた創作劇。

2017-03-02 19:22:30
凡人のつぶやき @bonchan1

インダス文明の中心地「ハラッパー遺跡」では4600年前の都市成立以降は暫く小麦・大麦等の冬物が中心だつたが、4000年前に突如として稲作が始まり3800年前まで続いた。プラント・オパール分析からジャポニカ米だった。インダス文明南部ではハラッパー遺跡成立以前に稲作があった。

2017-03-02 19:38:03
凡人のつぶやき @bonchan1

4600年前の縄文時代中期末にはオーストロネシア語族海洋民はインダス文明圏に到達し、江南「粤(=越)」の稲作を伝えていた。ペルシャ湾や紅海の奥深くに進み、オリエントやエジプトにまで到達した。氷期にはこの地方は大乾燥した砂漠だった。

2017-03-02 19:42:32
凡人のつぶやき @bonchan1

弥生渡来系のポチ。田布施システムに群がる呉系楚人か呉人か越人の末裔。弁韓人・秦人グループかもね。 twitter.com/trinitalovelov…

2017-03-02 19:45:23
曼珠沙華 @trinitalovelove

@N_mittaka @bonchan1 外交がばら撒き外交しか出来ないバカボンは結局は金でしか友情も支援を得る方法を知らない典型的な世襲バカボンでもある。いわゆる、お友達連中とも便宜供与でしか繋が止められない情けない奴。

2017-03-02 19:39:18
凡人のつぶやき @bonchan1

弥生時代~古墳時代最後の渡来人(移民人)は漢氏と文氏で「今来漢人」と呼ばれ、春秋戦国の乱世で一部の極少数の人々が九州に渡来したが、大部分は朝鮮半島に逃れ住み複雑な経緯を経て古墳時代に大量移民して来た。オリエント方式の製鉄もこなし養蚕、稲作もこなすという秦人の呉系楚人もいた。

2017-03-02 19:54:53
凡人のつぶやき @bonchan1

最も古い渡来人は呉系の韓人で「古来、元来」とも言える呉人であり、阿曇族がこれに当たる。従って初渡来した紀元前4世紀頃は九州はY-O2b1とY-D2の縄文人主体の地域であり、阿曇氏族といってもごく小さな集団だった。☞ 江南人系漢人の大量移民が行われたのは古墳時代です。

2017-03-02 20:03:20
凡人のつぶやき @bonchan1

倭国大乱前夜の日本国(=倭国)は、九州の漢(荊)の大国主と秦人(少彦名)同盟があり、当然旧石器時代~縄文時代と継続して先住していたY-D2やC1a、C3a、O2b1らが住む九州に渡来した異民族という事だ。倭国大乱の主犯格はこの大国主系民族の一首長孝霊だった。

2017-03-02 20:10:36
凡人のつぶやき @bonchan1

「神代記」「この大国主神、胸形奥津宮に坐す神、多紀理毘売を娶って生む子は阿遅鉏高日子根神・・・今は迦毛大御神というなり。」「応神紀」「阿知使主(漢氏始祖)等、呉より筑紫に到る。時に胸形大神、工女等を乞う事あり。故に兄姫を以て胸形大神に奉る。これは即ち今、筑紫国にある御使君の祖也」

2017-03-02 20:21:16
凡人のつぶやき @bonchan1

文・漢氏(越・荊)の象徴の大国主が秦系の象徴である多紀理姫を娶った=越と秦の修好。☞ 飛騨のヒルメムチ(後の天照大神)の長女を「多紀理姫」という名前を創作して秦系の娘に詐称している。

2017-03-02 20:25:41
凡人のつぶやき @bonchan1

①「古墳時代」→文・漢氏(越・荊)の阿知使主の娘・兄姫を宗像大神が娶った。②「神代(BC1世紀)」→文・漢氏(越・荊)の大国主神が秦系の多紀理姫を娶った。 ☞ 「応神紀41年条」①と「神代BC1世紀」②の内容は同じ話。

2017-03-02 20:33:22
凡人のつぶやき @bonchan1

②の兄姫を祀るのが玄海町鐘崎の名神大社「織幡神社」で、文・漢人の越人と秦人の呉系楚人が融合した御使君の祖神。「秦系の男」に「漢荊の妻(=兄姫)」という組み合わせで「秦系」だと意識されていた。現祭神の武内宿禰は「織幡」の名にそぐわず、後世に入れ替えられた。

2017-03-02 20:39:34
凡人のつぶやき @bonchan1

「玄海町の織幡神社」には既に10世紀には仲哀・神功・応神朝の功臣・武内宿禰を祀ってあったが、神官は代々壱岐氏(=秦氏)、高向氏(漢系)が務めた。「御使君」は宗像氏(壱岐氏同族)と高向氏(一大率同族)の娘が婚姻して生まれた氏族。=筑紫国。

2017-03-02 20:44:07
凡人のつぶやき @bonchan1

壱岐直真根子が武内宿禰に「瓜二つ」で、身代わりになって助けた(「応神紀」)→壱岐氏と武内宿禰(秦人)は親密であり、祭神の入れ替えが行われた。☞ アジスキと天若彦は「瓜二つ」と同類の戯言。壱岐真根子とは壱岐「真似した子」か?

2017-03-02 20:49:04
凡人のつぶやき @bonchan1

「御使君」とは使者として中国に派遣されたという民族伝承に基づき与えられた姓で、「魏」に派遣された難升米(ダンショウベイ)や坂上系図の「段姓」高向調使(調使とは、布地などの税=調を持って行く遣いで中国に派遣された)。

2017-03-02 20:54:27
凡人のつぶやき @bonchan1

難升米は民使主首、高向調使、高向村主などの一族で、6世紀の「船氏」「津氏」「葛井(藤井)氏」等の祖と関係する。御使君は難升米と母系で繋がり、秦氏は牛トーテムを含むから、難升米と共に魏に向かった次使の「都市牛利」が御使君の祖先かも知れない。

2017-03-02 21:00:52
凡人のつぶやき @bonchan1

秦系の宗像と同盟し津屋崎に拠点の橋頭堡を得た「文・漢人の越」は、続々と古墳時代に宗像に移民して来たものと思われる。同じ種族の「天日槍・日鉾・日矛」の渡来はBC39年以降だろう。文・漢人の越の渡来は後漢の光武帝に朝貢し(AD57)属国となる道を選んだ奴国韓人の呉人には新たな脅威だ。

2017-03-02 21:07:29
凡人のつぶやき @bonchan1

津屋崎町渡の「楯崎神社縁起」→「夷の鬼神が侵入したがオオナムヂ、胸形姫大神、自ら神軍を率いて敵を殲滅した。楯崎及び加羅船等の名はけだしこれより起こる。」夷の鬼神、加羅船=奴国の呉人軍隊。現祭神はオオナムヂ命と少彦名命で、胸形姫大神と少彦名命が置き換えられているが、これは秦系同一神

2017-03-02 21:14:56
凡人のつぶやき @bonchan1

オオナムヂ神とは「文・漢人の越の神」であり、越の神オオナムヂ(=大国主神)と宗像秦人連合は、呉人(=韓人)との戦いに勝利した。しかし、「奴国」は「漢委奴国王」の金印を授けられた後漢光武帝の属国として正式に認知される国で、漢に如何に申し開き出来るだろうか困惑したはずだ。

2017-03-02 21:20:22
凡人のつぶやき @bonchan1

AD106年に文・漢人の越・オオナムヂ神と宗像秦人連合は呉に戦勝したが、翌107年に漢人(越)の王(倭面土国帥升、阿知王)は自ら後漢に赴き、捕虜とした奴国呉人の生口160人を献じてその間の事情を説明し許しを請うた(「後漢書・安帝永初元年「願いて見を請う」)。

2017-03-02 21:26:37
凡人のつぶやき @bonchan1

安帝との面会は許されなかったが後漢はこの紛争を調停し、奴国の再起と漢人の国の承認を同時に行った。「奴国(呉人国)」は再起され宗像郡に漢人(文人)の「不弥国」が築かれた(津屋崎~直南の宗像郡福間町)。大乱後更に南下し糟屋郡新宮町まで拡大、新宮町に「上の、下の」府という地名が残る。

2017-03-02 21:32:43
凡人のつぶやき @bonchan1

糟屋郡新宮町に「上の、下の」府の地名が残るが、南方には「大神神社」がある。邪馬台国はこの時はこの新宮町辺りにあったのだろう。九州での勢力拡大を諦めた越の文・漢人は同族の辰韓人(弁韓人)越人の八束水御神角命=オオナムヂ神が国を創っていた「出雲」に入り、その上位に融合した。

2017-03-02 21:37:25
凡人のつぶやき @bonchan1

オオナムヂ神の出雲国に入り融合した越人の文・漢人の様子は、「オオナムヂ神の幸魂・奇魂が海原を照らして出雲に出現した」と表記される。スサノオは娘の須勢理姫(実は宗像の多紀理姫)を背負って根の堅洲国を逃れようとする大国主神に「汝の庶兄弟を追い払って宇迦の山本に宮を立てて住め」と言った

2017-03-02 21:43:52
凡人のつぶやき @bonchan1

文・漢人(=越の鰐・ワニ)の最初の建国地は、「出雲郡宇迦郷(島根県平田町)」だった。重大な事は、この町の山中に「鰐洲寺」という名前の寺がある事だ!ただの偶然ではないのです。

2017-03-02 21:47:09
凡人のつぶやき @bonchan1

「出雲国風土記」は、「天下造らしし大神の命(オオナムヂ神)が神魂命の子・綾門姫を妻問いしたが、女神は逃れて隠れてしまった。大神が伺いを立てた所がこの里で、それで宇賀というのだ。」と記す。これは土地の秦系住民を追い払ったとも聞こえる。

2017-03-02 21:51:52
凡人のつぶやき @bonchan1

宇賀の北の海辺には磯があり、その磯の西に洞窟があってその中に洞穴がある。人が入る事は出来ないので深浅は判らないが、夢でこの磯の洞窟の畔に到ると必ず死ぬ。故に土地の者は昔から黄泉の坂、黄泉の穴と名付けている。」→大国主はスサノオの根の堅洲国(黄泉)から宇賀の北の海辺へ出現した。

2017-03-02 21:57:45
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