「駅前再開発」でGoogle画像検索すると、無個性の極みに驚く。――「官能都市」VS「無個性都市」をめぐる論争点のほぼセルフまとめ
- mihatsuikutoshi
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これだな。前に連続ツイートしたのだが、Togetterにまとめておけば良かった。そのうち…。 twitter.com/mihatsuikutosh… >前ツイ
2017-03-25 00:33:05続き。Sensuous City homes.co.jp/souken/report/… のプロローグのパート2を読んだ。これは非常に良い。ジェイン・ジェイコブズ、ルイス・カーン、ヤン・ゲール、リチャード・フロリダ等についての言及もある。あと(批判的に)ル・コルビュジエについても。(続く
2017-03-01 09:02:43New Documentary to Explore the Life and Legacy of Jane Jacobs goo.gl/w0y58W #architecture
2017-03-24 05:29:16(終わり。)
以上、「官能都市」VS「無個性都市」をめぐる論争点のほぼセルフまとめでした。最後まで読んでくださって、ありがとうございます。(^-^)
最後にこの論争の私なりの結論を少しまとめておこう。前述の「センシュアス・シティ VS ジェネリック・シティ」の記事についてで書いたように「都市は本質的に矛盾している」。この「矛盾」を受け容れることが肝要である。例えば都市に関する論争で「官能都市」派と「無個性都市」派にそれぞれ分かれて、それぞれの派閥でそれぞれに整合性のとれたロジックを構築(理論武装)したとしても、それは「矛盾」を相手側に(まるでドッヂボールのように)押しやることで成り立っている場合がほとんどである。
もちろん双方が綱引きをすることで適切な着地点を見つけることができる場合もあるだろう。しかし、例えば現在の「築地市場の豊洲移転問題」での論争を眺めていると、高度情報社会化(ネット社会化)が進んだせいか双方の対立がひたすら増強する、それぞれの派閥がそれぞれ先鋭化(カルト化)していくという傾向が強まっているように見える。もはや着地点はない。そこにあるのは勝つか負けるかだけである。とは言え、歴史的にみれば、それほど真新しい現象でもないかも知れない。過去にもあったことである。1902年に刊行されたエベネザー・ハワード著『明日の田園都市』の第11章「続く道」から少し引用しておこう。
「おおまかにいえば、産業改革者は二つの陣営に分けられるであろう。第一の陣営は生産の増大の必要性に、つねに深い関心を向けることに重要性をおく人たちである。第二の陣営は、より正しくより平等な分配を目標とする人たちである。…前者はだいたい個人主義的タイプであり、後者はだいたい社会主義的タイプである。」
「わたしは、個人主義者と社会主義者の両者が、早晩かならずたどらなければならぬ道があることを示したが、さらにこの論点を明確にしたい。わたしはつぎのことを十二分に明らかにしてきた。もし個人主義の意味する社会が、その構成員が自分の好むところを行い、好むものを生産し、多種多様の自由な結社を結成する十二分の自由の機会があるものであるならば、小規模の社会では、社会はいまよりなお一層個人主義的になるであろう。もし社会主義が意味する生活状態が、そのなかでコミュニティの繁栄が守られ、自治体の努力の範囲を広く拡張することによって、集団精神が明らかにされるものであるならば、社会はまたなお一層社会主義的になるであろう。
これらの望ましい目的を達成するために、わたしは、それぞれタイプの異なる改革者の著述の例にならい、それらを実用性という糸で綴じたのである。…それは、悪感情や争いや苦痛を惹きおこすことなく、合憲性を有し、革命的立法を必要とせず、既得権に直接の攻撃を加えることのない方法で容易にできるのである。このようにして、わたしが言及した二派の改革者の願望が達成されるのである。」
ポイントは「実用性という糸で綴じた」のところですね。それがハワードが考案した「田園都市」の都市モデルなのです。ハワードの「田園都市」は都市史・建築史では「都市と農村の結婚」というフレーズで割と有名なのだけど、実はそれ以上にハワードの「田園都市」は「個人主義と社会主義の結婚」をさせた都市モデルでもあるのです。私は以前つくった「サンダル履きで歩ける都市をめざして(2)」のTogetterで、私が意図していることは「都市の効率性vs非効率性のような対立図式の破棄である。都市のリアリティを知りつつ、その上を行く都市モデルを提案するということである」と書いたのだけど、それは私がハワードの「田園都市」のことを常に念頭に置いているからに他ならない。
もう少し詳しく書くと、そのTogetterで私は「官能都市」の元祖とも言える都市思想家のジェイン・ジェイコブズと「無個性都市」の元凶となった近代建築(モダニズム)のカリスマ的存在の建築家のル・コルビュジエとを同時に批判(両成敗)した後で、そのいずれでもない新しい都市モデルの「サンダル履きで歩ける都市」を提案しているのだけど、ハワードに倣って書き方をネガティブからポジティブに転じると、私がつくったその都市モデルの意図は「官能都市と無個性都市の結婚」にあると言い換えられる。「官能都市」VS「無個性都市」の答えに至るには白か黒かになりがちな派閥対立へ向かうよりも、グラデーションを描くことができる都市モデル(パターンや数式など)を用いたほうがはるかに容易である。
「白と黒のその間に 無限の色が広がってる」(Mr.Children 「GIFT」)
・ エベネザー・ハワード → Wikipedia