涼州の奥座敷、河西四郡の歴史

蘇則、張恭、黄華、張猛、龐育、楊豊。誰それ!?という武将ばかりが躍動する涼州の奥座敷にしてシルクロードの入口、河西四郡の歴史。郝昭と韓遂は少し関わるよ。
7
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

ちくま正史三国志を買って18年、ずっとスルーしてきた河西四郡の歴史を自分の中でこの前整理してみた。誰それ!?という武将ばかり。蘇則、張恭、黄華、張猛、龐育、楊豊らが躍動する涼州の奥座敷にしてシルクロードの入口。郝昭と韓遂は少し関わるよ。時間と元気があればまとめてみます。

2017-05-17 22:43:30
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

ネットで拾ってきた河西回廊の地図。細い谷が続いていることがよくわかる。東から武威(下のカッコで囲ってあるほうが漢代の場所)→張掖→酒泉と連なっている。玉門は玉門関のことで敦煌のちょっと西。ここが河西四郡。 pic.twitter.com/zNgI4s7huZ

2017-05-18 21:39:52
拡大
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

アメリカのデスバレーやブライスキャニオンよりも更に鮮やかな感じの不思議な岩の芸術がある(らしい。行ってみたい。)河西回廊。漢の時代にもこの景色が広がっていたのでしょう。 twitter.com/adorukuf/statu…

2017-05-18 22:38:49
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

辺章の乱より少し前のこと、酒泉郡表氏県の趙安の娘の娥親は同県の龐子夏に嫁いでいましたが、同県の李寿に夫を殺害されました。龐子夏の弟たちは復讐を計画しますが疫病が発生して三人とも亡くなり、李寿は「龐家の強壮の者は亡くなり女が残されただけだ」と喜びます。

2017-05-19 19:56:24
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

娥親の子の龐淯が李寿の言葉を母親に伝えると娥親は怒りに心を震わせ、刀を日々研いで周囲の制止も振り払い復讐の機会を待ちます。179年2月の白昼、ついに李寿と出会い怒鳴りつけ斬りかかります。李寿は仰天して逃げますが馬を斬られて振り落とされます。

2017-05-19 20:01:21
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

娥親は地面に落ちた李寿にさらに襲い掛かりますが、剣が木に刺さって折れてしまいます。娥親は負傷した李寿の刀を奪おうとしますが、李寿は刀を守って大声で叫び立ち上がります。娥親は体ごと李寿にぶつかっていき、左手で彼の額を押え、右手でのどを突いて倒し、剣を奪って首を切り落としました。

2017-05-19 20:05:47
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

娥親は李寿の首を持って県に出頭し自ら獄に向かいます。禄福県の県長だった漢陽の尹嘉は彼女を許そうと自分も県長の印綬を捨てて逃がそうとしたが、娥親はそれを断り法に従い処刑されることを強く望みました。当時の涼州刺史の周洪と酒泉太守の劉班は共に上奏して娥親の心を称えました。

2017-05-19 20:15:35
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

娥親は恩赦で許され、彼女を顕彰する石碑が作られました。太常の張奐も彼女を称えて絹を贈り、当時の評判となりました。後に黄門侍郎の安定の梁寛が娥親の伝記を書きました。娥親については後漢書の列女伝、三国志の龐淯伝に詳しく記載があります。

2017-05-19 20:20:58
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

娥親は趙氏の娘なので姓は趙、後漢書によれば字が娥、三国志龐淯伝では趙氏の娥、同じ伝に引く皇甫謐の「列女伝」によれば龐娥親とあります。日本と違い結婚しても元の姓を名乗るはずなので趙娥親、趙娥と呼ばれるのが正しいのでしょうがなぜか「龐娥」として知られています。なぜだろう。

2017-05-19 20:27:04
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

涼州で異民族と戦い名を知られた張奐は元は敦煌郡の出身です。後に本籍を弘農に移しましたが涼州では有名人だったのでしょう。「蒼天航路」では曹操に仕える老将として黄巾の乱で戦いましたが、実際は黄巾の乱の前に亡くなっており曹操との関わりはありません。

2017-05-19 20:29:42
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

また安定郡の梁寛は211年に馬超が涼州刺史の韋康を殺害し、その部下だった楊阜が姜叙、趙昂、王異らと馬超に対して反乱を起こして涼州から追い出した際に、梁寛も楊阜と共に戦っています。龐淯伝の記述により、その後中央で黄門侍郎となったことがわかります。

2017-05-19 20:34:23
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

張奐が武威太守を務めていた際に生まれた子が張猛ですが、河西四郡のこの後の歴史で重要な人物となるのがこの張猛と、先ほどちょこっとだけ登場した娥親の息子の龐淯です。なので娥親の仇討ちの物語を導入として紹介させていただきました。

2017-05-19 20:40:39
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

さらに推測ですが、禄福県長の尹嘉の出身地は漢陽郡ですがこれは後の天水郡のことです。主君の韋康の仇討ちのために楊阜と共に戦った尹奉は天水郡の出身なので同族にあたるかもしれません。さらに尹奉はこの後に敦煌太守に就任しています。

2017-05-19 20:43:53
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

またさらに時代は下って、諸葛亮が第一次北伐で天水を落とし、姜維を配下にしますが、このとき天水郡の主簿の尹賞も一緒に降ります。郡の役人はその郡の人間が登用されるので尹賞も天水出身なのでしょう。尹賞は蜀で執金吾にまで昇進します。この尹賞も尹嘉・尹奉と同じ一族なのかもしれません。

2017-05-19 20:50:39
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

龐娥親の仇討ちの後に、涼州では辺章、北宮伯玉らの反乱が184年末に発生しますが、河西四郡はあまり戦場とならないのでバッサリ割愛。ただし義従胡や先零羌などこの反乱に関わった異民族は武威・張掖およびその周辺の砂漠地帯や山岳地帯にも居住していたようです。

2017-05-20 15:52:20
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

董卓は戊己校尉を務めていたことがあります。戊己校尉は西域を束ねるのに重要な役職で兵を率いて車師国に駐屯していました。董卓が政権を握った際に車師王の侍子(皇子)を愛したと後漢書趙典伝にありますが戊己校尉を務めていたことと関係があるのでしょう。

2017-05-20 16:10:00
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

西域の他の諸国の中にも車師のように人質を漢王朝に送って交易を行っていた国もあるのでしょうし、羌族とも通じていた董卓が政権を握っていた時代には河西四郡も董卓の影響が強かったのではないかと推測します。あまり強い統治ではないのかもしれませんが。

2017-05-20 16:12:43
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

194年3月、韓遂と馬騰は郭汜・樊稠と長安郊外の長平観で戦い敗れます。このとき朝廷側で工作をしていた种劭も戦死します。後漢書种劭伝によれば种劭は董卓が何進に呼ばれて軍を率いて上洛した際に、董卓を一喝したこともある硬骨漢です。

2017-05-20 16:25:08
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

董卓は种劭を避けるために益州・涼州の刺史に任命しました。赴任しないうちに董卓は殺され、その後の王允と李傕・郭汜の戦いで种劭の父の种払も戦死したので喪に服し、結局涼州や益州には行っていないようです。

2017-05-20 16:27:03
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

しかし馬騰と韓遂は涼州の有力者ですし、种劭と共に朝廷側で動いていた劉範は益州牧の劉焉の息子です。劉焉も劉範に呼応して兵を送ろうとしているので、种劭は劉焉とも協調しています。李傕・郭汜政権を涼州と益州の勢力で打倒しようとする動きであったのでしょう。

2017-05-20 16:30:53
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

しかし种劭側は敗死し、後漢書献帝記によれば3か月後の194年6月に朝廷は涼州の河西四郡である敦煌、酒泉、張掖、武威を分けて雍州を設置します。そして陳留の人である邯鄲商を雍州の刺史に任命します。また当時欠員となっていた武威太守には張奐の息子である張猛が任命されました。

2017-05-20 16:40:10
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

涼州から雍州を分割したのは李傕・郭汜政権が种劭および益州・涼州勢力を破った後の戦後処理の一環ではないかと思います。また同時期である建安初年に馬超伝によると涼州刺史の韋端が司隷校尉の鍾繇と共に抗争を続けていた馬騰と韓遂を和解させたとあります。

2017-05-20 16:47:36
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

韋端の涼州刺史の就任時期ははっきりとしませんが种劭が涼州刺史に名目上なっていたとすれば、种劭が死んで雍州が分割され邯鄲商が任命されたと同時に韋端が残った部分の涼州刺史となったと考えるのが自然ではないでしょうか。

2017-05-20 16:55:29
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

この説の欠点というか議論の余地が残るのは馬超伝に馬騰と韓遂が仲違いしてお互いの家族を殺しあったとあるのが郭汜・樊稠に敗れてからすぐに就任した韋端に仲裁されるというごく短い期間になることです。あくまでもイメージ的なものですが馬騰韓遂の抗争はもう少し長く続く感じがしていました。

2017-05-20 17:06:57
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

晋書地理志によれば興平二年(195年)に武威太守張雅が請願して張掖郡から分けて西海郡を置いたとあります。三国志龐淯伝では邯鄲商は張猛と一緒に赴任したとありこれは194年のはずで合いません。名前が張猛の誤りか、もしくは官職が誤っているのでしょう。

2017-05-21 10:20:22
1 ・・ 4 次へ