公孫瓚:三国志の序盤を彩る北の勇将

三国志の序盤で活躍する公孫瓚の一生を「三国志」「後漢書」を追いながら解説します。烏丸族との戦いを生き甲斐にした公孫瓚は烏丸族を味方にした袁紹に滅ぼされることになりました。
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おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

ちなみに後漢書趙岐伝によると公孫瓉と袁紹は二年後に洛陽に献帝を迎えに来るという約束だったようですが、当然双方とも実行しませんでした。結果的に献帝の仲裁を公孫瓉も袁紹も一時的なその場しのぎの停戦に利用しただけだったと言えます。

2017-01-24 21:06:10
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なお青州に関しては臧洪が袁紹に反逆して(というのも張超が曹操に責められて臧洪は救援を望んだが袁紹は曹操と同盟していた(部下にしていたとも言える)ので当然張超を助けなかったのが原因)滅ぼされたのち、袁紹の長男の袁譚が田楷を青州から追い出します。

2017-01-24 21:08:53
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また劉備は青州北海国の相の孔融への援軍として戦った後、曹操に攻撃された徐州牧の陶謙を助けに行ってしまいます。田楷は幽州に戻り、ここに青州での公孫瓉の勢力は消滅します。(単経がどうなったかは不明)

2017-01-24 21:11:39
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さて公孫瓉と劉虞の対立について進めていきますが、この二人の関係には当初から難しいものがありました。公孫瓉は劉虞の赴任前から異民族と戦いを続けていました。後からやってきて自分の考えとは異なる穏健路線の劉虞とは相容れないものがあったのではと思います。

2017-01-25 19:17:45
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形式上は公孫瓉は後漢書劉虞伝にある通り「(劉)虞の節度を受ける」、つまり劉虞の指揮下にありました。劉虞は新しく来た上司というわけです。その上司が異民族との戦争や戦争に関する予算を削減し、民衆からの調達(略奪)を抑制するわけで公孫瓉は強い不満をもったのでしょう。

2017-01-25 19:29:32
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幽州は異民族に対する最前線であり、幽州の収入だけでは必要な軍事費を維持することができず、王朝は青州と冀州の収入を幽州の支出に充てていました。公孫瓉はこの豊富な予算を元に幽州での軍事行動を起こすことができていました。

2017-01-25 19:32:57
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しかし黄巾の乱や張純の乱などによる混乱で幽州への物資は滞ります。劉虞は寛容な政治をしいて農業生産を増やし、上谷郡(護烏丸校尉が配置されている)にて異民族との交易を行って利益を上げ、漁陽郡で算出する塩と鉄の収益を用いて幽州の産業を回復させます。

2017-01-25 19:37:03
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これにより産業は安定し、穀物の価格は低くなり、青州・徐州の戦乱を避けて多くの民衆が避難してきました。劉虞はこれらの流民を受け入れて流民たちは故郷を忘れるほど。質素な生活を率先していた劉虞を見習って豪族たちも贅沢を潜めたといいます。劉虞は幽州で善政をしいていました。

2017-01-25 19:41:41
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公孫瓉の心中を推測すると気に入らない上司の評判が良いことが面白いわけがありません。そこに格好の口実が生まれます。それが袁紹らによる劉虞の皇帝擁立だったのではないでしょうか。劉虞は不忠であると。

2017-01-25 19:46:34
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さらには冀州の韓馥からの譲渡を巡って袁紹にうまいこと利用されたことも当初袁紹との協調路線から心変わりして袁術派に変更する理由になったのではないでしょうか。劉虞は不忠であり自分は認めない、となると公孫瓉は劉虞の指示に従う必要がなくなります。

2017-01-25 19:50:07
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界橋、龍奏と公孫瓉は袁紹と血みどろの抗争を続けますが、劉虞は公孫瓉に渡す軍事物資を減らしていました。公孫瓉は不足する戦費を幽州で徴発したため劉虞の怒りは決定的になっていきました。劉虞も公孫瓉もお互いを非難する使者を朝廷に送りますが、朝廷はどっちつかずの対応を取ります。

2017-01-25 19:54:34
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幽州の中心地で劉虞の本拠である薊にある劉虞の政庁の近くに公孫瓉も自分の砦を築きます。劉虞は公孫瓉の討伐を部下と諮りますが、東曹掾(人事担当)の魏攸に反対されてとりあえずは収まりました。

2017-01-25 20:01:00
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劉虞は公孫瓉に面会を何度も求めますが、公孫瓉は仮病を使って応じません。魏攸が死ぬと193年10月、劉虞は十万の兵で公孫瓉の討伐を行います。従事の程緒は「味方同士で争っても国益になりません。集めた兵で威圧すれば公孫瓉は詫びを入れて戦わずして勝つことができます。」と進言します。

2017-01-25 20:08:43
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劉虞はこれを聞き入れず程緒を斬り、狙うは公孫瓉の首のみ、他は殺すな、民間の建物に火をかけるなと命じて公孫瓉を攻撃します。同じく従事の公孫紀は公孫瓉と同姓で目をかけられていました。公孫紀は夜を徹して公孫瓉に劉虞の挙兵を伝えます。

2017-01-25 20:11:42
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公孫瓉の手兵は外にいたため脱出を試みます。劉虞側は戦い慣れしておらず、火をつけることも許されていないので公孫瓉はうまく脱出でき、精鋭数百をもって火を放ち劉虞を攻撃しました。劉虞軍はあっさりと敗北して北の居傭に逃げます。百戦錬磨の公孫瓉の鮮やかな勝利でした。

2017-01-25 20:14:16
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公孫瓉は劉虞を追撃し、居庸を包囲して三日で落城させ、劉虞を捕えて薊に戻り幽州を掌握します。ちょうどこのとき董卓を誅殺した長安の朝廷からは劉虞を六州の都督に任命するために段訓が使者として来ており、公孫瓉は前将軍に命じられ、易侯に封ぜられました。

2017-01-25 20:19:29
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公孫瓉は段訓に劉虞は袁紹らと共に帝位を僭称した不忠者と訴えます。そして猛暑のおり市場の刑場に晒して「天子となるべき者であれば、雨を降らして救うだろう」とします。雨は降らず、劉虞は斬首されました。公孫瓉は段訓を幽州刺史に表します。

2017-01-25 20:22:51
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公孫瓉は易京に巨大な城を建設します。いつから作り始めたかは定かではありませんが、易侯となったこととは関係があるのでしょう。川に面して海まで下ることができ、西側には山も連なる要害の地に十重の塹壕を掘り、10m以上の高さの土塁の上に数多くの楼閣を建て、何年ももつ兵糧を運び入れました。

2017-01-25 20:28:13
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易京は幽州と冀州の境界近くに位置し、袁紹ににらみをきかすこともできる場所であり、また山地沿いに袁紹と敵対する黒山賊の支援も受けることができました。ここで幽州の富を利用して態勢を立て直し、天下の趨勢を見守りながら反撃のチャンスを待つのがここからの公孫瓉の戦略となったのです。

2017-01-25 20:31:36
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公孫瓉は占い師の劉緯台、絹商人の李移子、商人の楽何当と義兄弟となっており彼らの娘を自分の息子(つまり公孫続の妻?)に取って彼らの巨万の富を利用していました。ちょうど劉備が麋竺の妹をめとったことと似ているのでしょうか。

2017-01-25 20:35:14
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逆に幽州の士大夫(名門たち)は冷遇されていました。「役人の子弟を取り立てても、彼らは自分たちの力で出世したと思い、私に恩義を感じないからだ。」と言ったともいいます。自身は名門の出身ながら、妾腹の身で疎外され苦労をした経験がこの発言に繋がっているのかもしれません。

2017-01-25 20:40:12
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

また劉虞を破って斬った際に多くの役人も殺したり、罷免して自分の子飼いの部下に変更しました。これも幽州の有力者との溝を深めたはずです。劉虞の元の部下が公孫瓉を罵って殺されたり、劉虞の首を奪い返して葬る部下もいたという記述があります。

2017-01-25 20:44:56
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

劉虞の従事であった鮮于輔と斉周、および騎都尉の鮮于銀(以前に田疇と共に長安への使者を務めた)らは劉虞の弔い合戦を行うために立ち上がります。彼らは烏丸・鮮卑族と親しい閻柔を烏丸司馬に擁立します。おそらく異民族と共同で戦闘ができる立場の味方を作るためでしょう。

2017-01-25 20:51:22
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

また袁紹は劉虞の息子の劉和に対公孫瓉戦の勇者である麹義をつけて鮮于輔を支援します。劉虞に厚遇されていた烏丸族もこれに加わり、公孫瓉の包囲網が築かれていきました。

2017-01-25 20:54:57