公孫瓚:三国志の序盤を彩る北の勇将

三国志の序盤で活躍する公孫瓚の一生を「三国志」「後漢書」を追いながら解説します。烏丸族との戦いを生き甲斐にした公孫瓚は烏丸族を味方にした袁紹に滅ぼされることになりました。
13
前へ 1 ・・ 3 4
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

遼西郡の烏丸の蹋頓は袁紹に使者を送り和親を求めました。上谷郡の難楼、遼東属国の蘇僕延(峭王)、右北平の烏延(汗魯王)などの各烏丸の族長も袁紹と結び、公孫瓉と敵対するに至ります。異民族に敵対してきた公孫瓉の政策が裏目に出る展開となりました。

2017-01-25 21:23:12
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

烏丸の諸部族を味方にして数万の兵を集めた閻柔は幽州漁陽郡の潞の北方にて公孫瓉の漁陽太守であった鄒丹と戦いこれを撃破します。鄒丹は斬られ、鮮于輔、劉和、麹義らと合流して十万もの軍になります。公孫瓉は自ら戦いますが漁陽郡の鮑丘県にて敗れて二万もの損害を出し、易京へ退却しました。

2017-01-26 19:20:42
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

公孫瓉は屯田を行い反撃の機をうかがいますが、幽州の諸郡は公孫瓉配下の役人を殺害して袁紹側に寝返っていきました。公孫瓉は易京の自分の楼閣に鉄門を置き、側近を遠ざけて七歳以上の男子が入るのを禁じ、側室や侍女に文書を吊り上げさせ、自らの指示も彼女らに大声で叫ばせました。

2017-01-26 19:30:22
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

劉備の元を離れた田豫は公孫瓉に仕えて行東州令(漁陽郡にある泉州県の代行)を務めていましたが、袁紹に寝返った王門という人物が一万の兵で攻め寄せた際に、公孫瓉への不忠をなじって退かせたのはこのときのことではないかと思います。

2017-01-26 19:35:54
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

麹義らの大軍に易京は包囲されます。配下の他の城が敵に包囲されても公孫瓉は救援を送る構えを見せませんでした。「助けに行くと他の配下も援軍をあてにして懸命に戦わなくなる。」との理由を述べたといいます。公孫瓉の引き籠り行動はさらに配下の離反を促しました。援軍は来ないと分かったからです。

2017-01-26 19:51:22
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

公孫瓉は自分の計画の失敗を感じ、一度は支持されていた人々にも離反され、人間不信に陥り鬱状態のような精神状態だったのではないかと想像します。しかしそんな状況でも堅牢な易京は袁紹軍の攻撃を跳ね返し続けます。麹義の軍は兵糧が尽きて退却していったのでした。

2017-01-26 19:55:51
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

前後関係がはっきりとしないのですが、易京から退却後、麹義は功績を誇って傲慢となったので袁紹に殺されました。198年、今度は袁紹が自ら軍を率いて易京を包囲します。攻城兵器や掘削道具を揃えて堅牢な易京城を今度こそは本気で落とすつもりでした。

2017-01-26 20:05:37
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

公孫瓉は息子の公孫続を黒山賊の長である張燕の元に送り、援軍を求めました。これと共に自ら騎兵を率いて包囲を突破し、黒山と合流して袁紹の背後の冀州に入って背後の糧道を断つという策を実行に移そうとします。窮地に陥っていたものの勇将公孫瓉に相応しい果敢な策でした。

2017-01-26 20:14:16
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

しかしここで長史の関靖は「現在味方は総崩れの状態で、老人子供を心配する気持ちと殿が城にいて率いているから辛うじて持ちこたえています。いま殿が離れれば城は持ちこたえられません。」と進言します。公孫瓉はこれをもっともだとして出陣を取りやめました。

2017-01-26 20:18:06
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

199年春、公孫続は黒山賊の武将である杜長ら(頭目の張燕自身も来たのかも)と共に援軍として三方向から押し寄せます。公孫瓉は使者の文則を公孫続の元に送り「『頭を床で砕くくらい張燕にお願いして』騎兵を送り到着したら北の湿地でのろしを上げて合図せよ。こちらも討って出る。」と伝えました。

2017-01-26 20:26:59
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

しかしこの伝令は袁紹軍に捕らえられてしまいます。袁紹はのろしを上げて公孫瓉を誘い出し、散々に打ち破りました。袁紹は地下道を掘らせ、楼閣の下を木の柱で支え、それを焼いて楼閣を崩壊させながら公孫瓉の楼閣に近寄っていきました。

2017-01-26 20:32:52
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

公孫瓉は助からないことを悟ると、妻子や姉妹を絞め殺し、楼閣に火を放って自殺しようとします。しかし袁紹軍の兵がよじ登って公孫瓉を斬り殺しました。

2017-01-26 20:34:25
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

関靖は公孫瓉が死ぬのを見て私が以前に将軍を止めなければこうはならなかったかもしれない。人を危機に陥れたなら一人生き残ることはできない。」と袁紹軍に突撃して死にました。公孫瓉への忠義は貫いたと言えます。公孫続は後に匈奴の屠各(部族のひとつ)に殺され、田楷も袁紹と戦いで戦死しました。

2017-01-26 20:38:54
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

閻柔と烏丸の諸部族は袁紹に仕えます。鮮于輔は田豫の進言で官渡の戦いの裏で曹操に通じたとありますが、実際は袁氏が幽州を失う段階まで合流しておらず幽州人士は両側に通じて形勢を見守っていたのではないかと思われます。

2017-01-26 20:41:24
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

こうして公孫瓉は滅びました。袁紹は河北を統一し烏丸族と結んで後顧の憂いを無くし、南下して曹操との決戦に臨むことができるようになりました。また易京の攻城戦の経験は官渡の戦いでも十二分に生かされたことでしょう。

2017-01-26 20:44:42
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

袁紹配下で寧国中郎将であった張郃は公孫瓉との戦で功績があったとありますが、彼の出身地である冀州河間郡バク県は易京のすぐ近くであり土地勘や人脈を生かして活躍することが出来たのではないかと思います。

2017-01-26 20:49:32
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

公孫瓉は幽州の士大夫と敵対し、自分の子飼いや義兄弟の商人らを優遇したため支配力が弱かったとされます。確かにこれは公孫瓉が滅びる要因の大きな部分なのですが、これに加えて対異民族融和派の劉虞を滅ぼした後の強硬路線が極端過ぎたため付け入る隙を対立した袁紹に与えたのも大きいと言えます。

2017-01-26 20:56:04
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

袁氏の融和路線は一度曹操の烏丸討伐により途絶えるものの、その後は曹魏は融和・同化路線を続け、異民族たちが漢民族の近くで住む状況と、異民族の軍隊への導入が進んでいき最終的には中国北部が異民族に統治される南北朝に繋がっていきます。

2017-01-26 20:59:29
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

というわけで公孫瓉のお話しはこれにて終了します。読んで下さった方どうもありがとうございました。

2017-01-26 21:00:58
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

公孫瓚を語ったら公孫瓚を好きになりました。元々割と好きでしたが。

2017-01-27 09:16:18
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図(上)(下) @osacchi_basstrb

調子の良い時はイケイケドンドンで調子が悪くなると仲良い人だけと引きこもる。人間臭い公孫瓚。

2017-01-27 09:17:50
前へ 1 ・・ 3 4