関ヶ原合戦における「高橋陽介」説について~始まる前から、西軍の梯子を外した男…毛利輝元かーっ!
- gryphonjapan
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@suikyosen 確かに後世に城攻めの達人と評された秀吉が高松城を水攻めにして毛利本隊の動きを止めたのにも関わらず「苦戦してます援軍ください」って信長に要請するくらいでしたから、そう考えると輝元公って実は本当にかなりのやり手なんじゃないかって思います。
2017-06-21 22:57:10関ヶ原合戦における「高橋陽介」説について~始まる前から、西軍の梯子を外した男…毛利輝元かーっ! - Togetterまとめ togetter.com/li/1122448 @togetter_jp 白峰旬先生による高橋説への反証ノートも末尾掲載されてるので、此方も是非ご一読を。
2017-06-21 23:10:13@QXE5UeXc7sTs075 水を差すようで申し訳無いですが「毛利水軍による江戸中入り」などはハッキリ言って不可能ですし、輝元自身もそんな事は微塵も考えなかったと思います。輝元の敵は確かに家康ですが、既に指摘されてる通り輝元には家康と正面対決する理由がなく、彼の主眼はあくまで大名毛利家の領土拡大に過ぎないかと
2017-06-21 23:15:39ぶっちゃけ輝元には家康と正面切って天下争う理由なんか全く無いんだよね。仮に家康倒して輝元が豊臣家執政になった所で、そのうち成人する秀頼との対立は避けられないし、輝元より圧倒的に若い秀頼倒して天下簒奪するとか道義上どう考えても無理。輝元が望むのは西国覇権であり"天下"などではない
2017-06-21 23:19:57というかね、従来の関ヶ原合戦研究における最大の問題点って「毛利輝元が徳川家康倒して天下人の座を狙った」という先入観に尽きると思うのよね。関ヶ原勃発時の実質的な"天下人"は既に(豊臣家内部でも官位でも)家康ただ一人であり、輝元自身もその事自体は諸史料からほぼ認めてたと思われる。(続
2017-06-21 23:23:54で、じゃあ毛利輝元の狙いは何だったかと言えば「祖父元就も遂に実現できなかった中国・四国・九州(具体的には旧守護大名大内家の勢力圏)の完全掌握」であって、だからこそ長期化を睨んで毛利家主力を殆ど動かさず、伊予や豊後豊前への出兵で毛利家の領土拡大を最優先にした、と私は考えてる。(続
2017-06-21 23:27:00つまり輝元の本当の狙いは「織田が滅んで太閤秀吉も死に、生き残った内府家康も上杉征伐で遠く奥州会津へ遠征中」という隙を突き、石田三成以下を唆して畿内で騒乱起こさせ、自分は大坂城で豊臣家執政の立場を確保しつつ祖父元就以来の西国完全掌握に乗り出した、辺りが事実として落とし所ではないかと
2017-06-21 23:30:55@suikyosen 中入自体は実現性が低いが、せめて、勝ちに誇った徳川軍を近江で野戦築城して粘りつつ、水軍で徳川の補給を脅かす気は無いと行けない。水軍に数千の兵を載せ、東海道の留守城を奪う位は出来る。東仙道は山道で輸送が難しい。それに真田にイタズラさせる事も出来る。故に中原で徳川を乞食に出来る。
2017-06-21 23:30:56これ何度も言うけど、朝鮮出兵時の不手際で改易され秀吉の死で一応赦免はされたが本領豊後帰還は果たせず燻ってた大友吉統を焚き付け、兵力貸して毛利の本拠地広島から海路を豊後へ殴り込ませ大友旧臣による一揆を起こさせ邪魔な黒田如水ほかを釘付けにさせた輝元の謀略は、彼の人生最高の傑作だと思う
2017-06-21 23:37:36@Kasshinhu 吉川広家は家康率いる東軍に内応させ、嫡男秀就誕生で微妙な立場にあった秀元は石田方の西軍に参加させ両軍の情報を集めさせ、徳川石田どちらが勝っても毛利本体が潰される事を避ける「保険」だったのでは、と。広家・秀元両隊が関ヶ原本戦で動かなかった事も、これを裏付ける傍証になるとは思ってます
2017-06-21 23:43:54@hirataitaisho ところがそうでもないんです。事実、豊臣秀吉政権初期では、本来清華家で実質左大臣(空席あれば太政大臣が極官)だった菊亭晴季(後に秀次事件で失脚)や、羽林家で秀吉お膝元の播磨に荘園持ってた冷泉為将(儒学者藤原惺窩の実兄)が政治顧問として秀吉政権に参与してますし
2017-06-21 23:50:12@hirataitaisho あと豊臣家は秀吉・秀次が関白に就いた時点で清華家を飛び越えて「摂家」の一席に成り上がってますから、公家社会における門流制度を前提とすれば清華家や羽林家・名家などの中下級公家が事実上の摂家家司として政治参与しても何ら問題はないんです。毛利や前田は官位序列的に「羽林家」ですし
2017-06-21 23:53:38@Kasshinhu 空弁当の逸話も江戸時代の軍記物出典ですから何処まで信憑性あるかは疑問ですね……そもそも関ヶ原合戦図の配置自体が通説とは全く違うとしたら、伊勢街道方面を担当していた広家・秀元・恵瓊らは関ヶ原本戦に参加してたかどうかすら怪しいですし……
2017-06-21 23:56:03現代の感覚で物を見てはいけないというのを改めて感じさせられた気がする… なんかこれ見て輝元の謎だと思ってた動きが尽くしっくりきた… twitter.com/suikyosen/stat…
2017-06-21 23:57:45@suikyosen 大名毛利の所領拡大には、徳川を戦場で倒し、徳川の関東東海を得るしかない。そもそも、徳川は毛利を削って恩賞を確保した。そもそも250万石と150万石が同居出来るわけがない。毛利が所領を拡大するには自ら将軍を目指すしかない。それに、それしか戦の大義名分がない。
2017-06-22 00:00:03そもそも豊臣秀吉を頂点とした「武家関白制」という政治体制は日本史上においてもかなり異質というか非常に特異極まりない政治体制で、平安末期~鎌倉初期以来の所謂「五摂家」に豊臣氏なる新たな摂家を生み出し、大臣以下の公卿ほぼ全てを武家(有力大名)で固めるというトンデモ政治体制だからね……
2017-06-22 00:01:22@suikyosen しかし豊臣政権における序列は摂家豊臣・大臣家徳川・羽林家その他で固まってた訳で、わざわざ兵乱を起こして自分の地位を求めるというのは、意味があまり無いようにも思われます。
2017-06-22 00:04:15正直、所謂「関白相論」を引き起こして秀吉の関白就任の原因作ってしまった左大臣近衛信輔(信尹)や関白前左大臣二条昭実の心中は察して余りあるよ……実際、結果的に発端となった信輔はまもなく精神病んで左大臣辞職を願い出るけど"激怒"した秀吉によって薩摩流罪となってるし、もう、ねぇ……
2017-06-22 00:13:50@Kasshinhu ところがですね。「そもそも関ヶ原の布陣図自体が後世の創作で、実際の諸将配置は全然違っていたのでは?」という新説が近年複数の研究者から唱えられておりまして……確かに関ヶ原布陣図は多数存在しますが、殆どが江戸時代前期以降に描かれた"想像図"でしかないんですよ
2017-06-22 00:16:22この話を聞いたら毛利家が約30年前に大友からくらった大内輝弘の乱を思い出す。元就が宗麟の後手に回った感がある1570年前後。祖父が受けた屈辱を30年後に倍返しで仕返したような(笑)。 twitter.com/suikyosen/stat…
2017-06-22 00:21:20豊臣秀吉が構想して半ば実現してた所謂「武家関白制」は、武家側のみならず平安末期から鎌倉南北朝室町を経て応仁の乱以降の戦国期における公家側からもアプローチすべきだろうと。秀吉には菊亭晴季というブレーン(後に秀次事件で失脚)いたけど、入れ知恵したのはほぼ間違いなくコイツだと目してる
2017-06-22 00:23:19@hirataitaisho いや、輝元自身の公家社会における地位は既に権中納言という官位(家格的には羽林家)を得た時点で既に確定してるわけです。なので、官位・家格向上を狙ったのではなく、唯一の大臣家康を中央政権から締め出した上で自身を「豊臣家執政」という職位に置いて西国支配に必要な「権威」を欲したのでは、と
2017-06-22 00:29:04もし輝元が官位についても幾らか野心抱いてたとすれば、それは大臣職でも納言級の上位でもなく「近衛中将(権中将)」という武官職ではなかったか、という憶測。権中納言従三位は確かに高い地位だが、あくまで文官職なので"武家"の権威ではやや劣る。で、権中納言には近衛中将兼帯の資格や前例がある
2017-06-22 00:34:38