脈絡のない雑感まとめ

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二階堂盛義 @nikaidoow

最初の嫁が蘆名の女という話は奥羽永慶軍記ゆえ信憑性は高くないとは思うのだが、須賀川ではなく蘆名領である長沼で出される書物にて最初の嫁は蘆名の女と書かれる事が数回あったゆえ、もしかしたら長沼にはそのような話が残っているのかと思うとる次第。昔の書物ゆえ参考文献の記載がないのが痛いな

2016-04-18 23:30:50
三浦介 @miurano_suke

なるほど。そうだとすると、蘆名への入嗣がより自然に捉えられますね。興味深い! twitter.com/nikaidoow/stat…

2016-04-19 00:02:31
三浦介 @miurano_suke

歴代古案4に所収の那須資胤書状(1229)は「天文17年カ」とされてるけど、あり得ないよなあ。状況的に天正2年のような感じだが、書中に「仍伊達洞中之儀、于今鉾楯」とあるのが気になる。その頃伊達家中で内紛があったのか?

2016-05-02 18:46:45
三浦介 @miurano_suke

東白河郡の羽黒山城から佐竹氏の本拠地太田までは直線で約50km。ここが攻撃に晒されるのは佐竹氏にとってかなりの重圧だったのでなかろうか。やはり元亀から天正初めに佐竹氏が上杉氏の越山に非協力的になったのは蘆名家の攻勢が大きく影響したのでは、と思えるが…。

2016-09-27 22:29:32
三浦介 @miurano_suke

「福島県史 7巻」の中世史料をざっと眺め終わって改めて感じることはやはり岩城氏の存在の大きさ。精査したわけではないざっくりした感想だけど、永禄年間前期の仙道は蘆名氏と岩城氏の争いとも取れそう。

2016-09-28 12:21:53
三浦介 @miurano_suke

ふーむ、永禄12年明徹遠行、親隆不例で一気に岩城氏後退。石川郡が蘆名方となって佐竹が前面に出ざるを得なくなったと考えられるか…或いは明徹遠行、親隆不例によって佐竹が岩城を掌握できた故に前面に出て来ることが出来るようになったと考えるべきか…

2016-09-29 20:43:35
三浦介 @miurano_suke

江戸博の「戦国時代展」、宗英寺の「葦名盛氏座像」の実物は思いの外の大迫力で、見られてよかった。これだけで大満足(^_^) だが、右から左へ進む文書、屏風絵、絵巻に対して、鑑賞者が左から右に進まされるのには辟易したのを始め、ちょっと残念な部分も多かったな。

2017-01-03 18:55:10
三浦介 @miurano_suke

江戸博の「戦国時代展」の『図録』は各論は勿論、釈文翻刻が付き、更に例えば「葦名盛氏坐像」の解説で所謂「『永禄六年諸役人附』が永禄10年12月から11年5月の成立」としているのを始め、最新の説が反映されてるのがよいね(^_^)

2017-01-04 17:32:07
三浦介 @miurano_suke

というわけで、足利義昭の政権構想とされる「永禄諸役人附」の「光源院殿御代当参衆〜」に奥羽では「伊達次郎」と並んで「蘆名修理大夫」が入っていることから、やはり永禄7〜9年の岩瀬郡長沼城を巡る争乱の帰結は南奥戦国期における一つの画期だったのではないかと改めて思った。 twitter.com/miurano_suke/s…

2017-01-04 17:40:40
三浦介 @miurano_suke

ふーん、弘治の始めに大掾慶幹が湯治のついでに小田原に滞在したりしてたのか。一家の当主がふらりと他家の領地を訪れるとは、やはり関東には関東公方を中心にした連帯感や信頼感みたいなもんがあったのかね。(『白河市史5』836)

2017-01-04 20:47:04
三浦介 @miurano_suke

『白河市史5』所収の「畠山尚国書状」(854、862)、「畠山政仲書状」(855、863)。854と855が永禄2年に、862と863が永禄4年に比定されてるけど根拠は何なんだろう? 862と863には「未申通候」とあるし、内容的にもこの2通の方が古いように思われるのだが…。

2017-01-04 23:39:45
三浦介 @miurano_suke

戎光祥さん『三浦道寸』でもう一つ興味を引かれたのは「本来武家の沙汰」の三浦介補任が、戦国時代の蘆名盛隆に対しては「勅命」で行われているという点。著者は「中世の伝統的な『家職』となっていた」可能性が考えられるとするが、「勅命」だと「家職」になるのかな? 不勉強でわからない…

2017-01-31 21:34:34