Carlos Rodrigues(@fever7777)による「戦後政治史」【第三章】55年体制と日米安保の闇(1954~60) 鳩山一郎内閣から岸内閣まで

【参考】「戦後政治史」【第一章】日本の独立前夜(1945~48)東久邇宮内閣から芦田内閣まで http://togetter.com/li/108740 【参考】「戦後政治史」【第二章】日本の独立とワンマン宰相(1948~54) 第二次吉田内閣から第五次吉田内閣まで http://togetter.com/li/109443 【参考】「歴史【総論】」http://togetter.com/li/103350 【参考】「歴史【各論】」http://togetter.com/li/103354
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fever7777 @fever7777

東日本大震災で中断していた「戦後政治史」を再開させます。ちょうど戦後の混乱から、日本が復興してゆく姿は、希望と活力を感じさせます。今だからこそ、復興したかつての日本の姿と、政治の闇を振り返ってみることに意義があると考えた次第です。

2011-03-18 15:17:58
fever7777 @fever7777

第1回目は→ http://bit.ly/hqlRZS (1948年までの戦後のゴタゴタ時代) 第2回目は→ http://bit.ly/gKoPxf (日本が独立を果たした転換期) なお、文中は敬称を一切省略しています。

2011-03-18 15:18:24
fever7777 @fever7777

【第三章】55年体制と日米安保の闇(1954~60) 鳩山一郎内閣から岸内閣まで

2011-03-18 15:18:53
fever7777 @fever7777

1. 吉田内閣の退陣によって、1954年鳩山一郎内閣が誕生する。1946年の総選挙で日本自由党は第一党になり、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりとなったが、就任を目前にして戦前の統帥権問題を発生させたこと等をGHQが問題視したため、鳩山は1946年に公職追放となってしまった。

2011-03-18 15:19:13
fever7777 @fever7777

2. 鳩山は1951年、公職追放解除を目前に脳梗塞で倒れた。これが吉田内閣の長期化に繋がった。こういった不運が続いたためか、鳩山が首相就任後には大衆から「鳩山ブーム」が起った。この辺りに日本人の「悲劇のヒロイン・シンドローム」心理がうかがえると言えよう。

2011-03-18 15:19:40
fever7777 @fever7777

3. 鳩山総裁率いる日本民主党は、吉田の後継総裁となった緒方竹虎の自由党と、大きく対峙していた。しかし、この時代に、左派、右派に分裂していた日本社会党が再統一を果たすと、保守合同の機運が高まってきた。ここで保守合同に執念を燃やした人物が、三木武吉である。

2011-03-18 15:20:03
fever7777 @fever7777

4. 三木武吉は、まず政敵であった大野伴睦の説得にあたる。大野は古くは鳩山最側近であったが、吉田茂のお目付け役として自由党幹事長に就任して以来、鳩山派との距離は広がっていった。三木武吉は、国のための大義を掲げ、巧みに大野を説得してしまう。

2011-03-18 15:20:29
fever7777 @fever7777

5. さらに自由党総裁の緒方竹虎の了解も得て、保守合同は、鳩山・三木武吉・緒方・大野の4人を中心に進められる。また三木武吉は、民主党内の保守合同反対派である松村謙三や三木武夫を粘り強く説得して行く。

2011-03-18 15:20:53
fever7777 @fever7777

6. そして1955年に自由民主党が結成されると、宮沢内閣まで続く「55年体制」がスタートする。55年体制とは、自民党の議席数の約半分を社会党が持つ図式であり、別名「1と1/2政党制」とも呼ばれる。

2011-03-18 15:21:19
fever7777 @fever7777

7. しかし社会党内では、左派と右派のイデオロギーの違いがあり、自民党は寄せ集め所帯であり、両党とも決して盤石な体制ではなかった。三木武吉は、自民党は「10年持てばいい」と考えており、松村謙三は「30年で崩壊する」と予言していた程である。

2011-03-18 15:21:44
fever7777 @fever7777

8. 55年体制は、安定政権基盤を作ることで、第四章に記す高度成長の後押しをした。しかし闇の部分も数多くあったことも事実である。①自民党は元々の考え方が異なる議員を結集したため、事実上派閥連合体で後に深刻な党内対立を多く生んだ。

2011-03-18 15:22:09
fever7777 @fever7777

9. ②派閥も中選挙区制度、カネの分配を中心に形成されており、単なる選挙互助会でしかなかった。③社会党の議席数が少なかったため、チェック&バランス機能が完全には働いてはいなかった。④社会党に政権奪取の意欲が欠如していた。⑤国会内での議論が少なく、議会政治として脆弱だった。

2011-03-18 15:22:23
fever7777 @fever7777

10. さて三木武吉は、癌により余命が短い中、保守合同を果たした直後の1956年に死去する。盟友の死に落胆した鳩山は、日ソ共同宣言の成立を花道に内閣総辞職、政界を引退した。またポスト鳩山をほぼ約束されていた緒方竹虎も、同じ年に逝去している。

2011-03-18 15:22:48
fever7777 @fever7777

11. 鳩山が後継者を指名しないで、総理の座を退いたことで自民党史上初の金権総裁選挙が、岸信介、石橋湛山、石井光次郎の3人で争われる。岸優位のなか、石橋側近の石田博英の「2位・3位連合」というウルトラCで、石橋が決選投票で勝利することになる。

2011-03-18 15:23:14
fever7777 @fever7777

12. 石橋湛山は1956年12月内閣総理大臣に指名される。石橋は、三木武吉や河野一郎と並ぶ鳩山の最側近の1人であった。石橋は戦後、経済閣僚を歴任し「石橋財政」を推進し、GHQと対立してきた。戦時中はジャーナリストとして、リベラル言論人として鳴っており、石橋論文は今でも評価が高い

2011-03-18 15:23:44
fever7777 @fever7777

13. 内閣発足直後に石橋は全国10ヵ所を9日間でまわるという遊説行脚を敢行、自らの信念を語るとともに有権者の意見を積極的に聞いて回った。しかし帰京した直後に脳梗塞で倒れてしまい、自ら退陣を決意する。社会党の浅沼稲次郎書記長は、石橋の潔さに感銘を受けたという。

2011-03-18 15:24:09
fever7777 @fever7777

14. 石橋内閣退陣後、1957年2月に総理大臣の座についたのは岸信介である。岸は東条英機内閣の重要閣僚であり、戦後すぐにA級戦犯として巣鴨プリズンに収監された。しかし冷戦激化に伴い、岸や正力松太郎、児玉誉士夫、笹川良一などの戦犯は、復権し米国の任務をこなすようになる。

2011-03-18 15:24:33
fever7777 @fever7777

14. 岸の首相就任には、米国や児玉誉士夫の後押しが大きく左右したと言われている。岸内閣の最大の任務は、日米安全保障条約・新条約の調印・批准と、それを巡る安保闘争であった。1960年1月に全権団を率いて訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印を合意した。

2011-03-18 15:25:03
fever7777 @fever7777

15. これにより安保デモが激化、新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾した。熾烈化するデモは、警察だけでは抑えられず、岸は児玉を頼り、鎮圧に右翼団体や暴力団までが動員されることになってしまった。

2011-03-18 15:25:33
fever7777 @fever7777

16. 6月15日には東大生の樺美智子が死亡したことにより、反安保闘争は激化、反政府・反米闘争の色彩が強くなり、アイゼンハワー来日は中止となった。そして東久邇・片山・石橋の3人の元首相が、岸に退陣勧告するまでの事態となる。

2011-03-18 15:26:02
fever7777 @fever7777

17. 6月18日には安保条約は自然成立し、6月23日には岸は閣議にて「私のやったことは歴史が判断してくれる」と述べて辞意を表明、7月15日、混乱の責任を取る形で岸内閣は総辞職した。辞任直前には暴漢に襲われ、瀕死の重傷を負っている。

2011-03-18 15:26:33
fever7777 @fever7777

18. 日米同盟は今日でも、日本社会に複雑な陰を落としている。冷戦が終結した後も、日本は対米協調を軸とした外交スタンスを一貫してとってきた。この時代以降、米国との関係が良好な政権は長期政権下し、距離をおいた政権は短命で終る傾向となっている。

2011-03-18 15:27:03
fever7777 @fever7777

19. 岸は在任中は安保に明け暮れるが、死ぬまで「昭和の妖怪」と言われ、自民党や清和会へ暗然たる力を行使したのである。次回は、池田勇人・佐藤栄作(岸の弟)の時代と、日本の奇跡の高度成長について記す。(この章終了)

2011-03-18 15:27:33