元寇はどこまで日本の脅威だったか&モンゴル軍はどこまで強かったか
- gryphonjapan
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@99mina_jeju モンゴル人の得意戦法は騎兵による機動力です。ただ馬はとってもデリケートな生き物で移動で体調崩すこともよくあります。元寇が失敗に終わったのも船旅で馬の調子が悪かったことや騎兵に使う馬が限られてしまい得意の戦法が使えなかったことが大きいかもしれないですね。
2018-02-07 00:31:33@orfevreundflash @99mina_jeju 脇から失礼致しますが、元寇で来襲した元軍の内訳は大半が高麗兵と南宋の降兵だったようで、状況も準備等の不手際が多くモンゴル騎兵の最精鋭が万全の体制で押し寄せたという印象とは違った実情だったようです。
2018-02-07 01:13:35元と樺太の戦いは最終的には骨嵬(樺太アイヌ)が降伏しているけど、一時期は彼等に大陸に逆上陸されて侵攻され元も手を焼いていたようです。あと元寇と近い時期に元は「琉球」にも侵攻しています。しかしこの琉球が現在の沖縄か台湾か、よくわかっていないそうです。やはり侵攻には失敗してます。 twitter.com/99mina_jeju/st…
2018-02-07 12:57:49@Mk_GTi @99mina_jeju おお、それもありますね。高麗兵や南宋兵が中心で士気は高くなかったのは聞いたことがあります。
2018-02-08 01:35:51ココらへんのあれこれってね、近年再評価が特に激しいものでも有るんだが、まぁ戦後の思想的なバイアスがかかってしまっているのも否めないところがあるんね。>RT
2018-02-08 01:52:00「旧来の一騎打ちなどにこだわり、古い武士道を振りかざす鎌倉武士」を、戦前の軍国主義に、「近代的な兵器と戦略で合理的に戦う元軍」をアメリカなどに暗喩して・・・的な側面もあったのよ。いやなにせ、戦中「神風」神話があったから。
2018-02-08 01:53:41神風を「奇跡」ではなく、「ただの気象現象」にすることで、戦後社会の新体制に会う形にしたわけだ。まぁこれ事態はそこまでおかしなことじゃないし。過去の歴史に現代の歴史に重ねて語ることは、三国志の昔から世界中であることなのよ。
2018-02-08 01:56:28ただ元寇のあれこれがめんどくさかったのはねぇ、これ戦った武士側が「めっちゃ大苦戦したけど追い返しました。いや~やばかったな、あともうちょっとで日本滅んだな」と報告することで、より恩賞を得ようとしたとこがあるのねw
2018-02-08 01:58:01さらに当時の寺社勢力が「自分たちが一生懸命加持祈祷を行ったから神風が吹いたんですよ。いやマジでマジで!」と主張し、後世に伝えたところもあって、元側からしたら「おんやぁ!?」という形になっちゃったのよねw
2018-02-08 01:59:20そもそも元軍の強さの源であった騎兵部隊は、海を超えられんし。造船技術も操船技術も揚陸戦術も、海を隔てての補給線の確保など、それらのノウハウは一切なかった。なので結局、支配した中華、朝鮮半島諸国にやらせるしかなかった。この段階で士気もクソもねぇ状態だったのね。
2018-02-08 02:01:39しかもまだ一次の時は中国大陸の完全制覇はできてなかったし、その状態で突貫作業で船作らされて徴兵されたし、支配地でも抵抗運動すごかったし、むしろなんで来た元軍とw 北条時宗が恭順の使者を切り捨てたが、同時に高麗残党軍の使者も無視したのは、「来ねぇだろ」ってのもあったんじゃないかな。
2018-02-08 02:06:11んでまぁ、補給線も微妙な状態で、国内も完全統治してなくて、各所の進軍同時に行っている状態で、ガタガタ船で数だけ大量に送り込んで、待ち構えてたのは古来より外敵対策のために配置されていた武士団よ。この圧倒的アウェイ感!
2018-02-08 02:08:15人質効かないし、捕虜の概念ほとんどないし、「拙者が死んでも代わりはいるもの」と特攻突撃かますし。二回目の時には土塁作るし。さらに言えば当時の武士の長弓ってのは想像以上に射程長いは威力は強いはで、視界に映らない距離からかましてくるからこれがかなりやばかった。
2018-02-08 02:10:43こんな連中相手に、支配された国の士気の低い兵士が命がけで戦うかって言うと戦うわけがなく、士気は落ちる一方。「国に帰りたい!!」と騒ぎ出し、侵攻が成功するはずがない。そもそもが、侵略と言うか、武力示威が目的だったとも言われているしね。
2018-02-08 02:12:42現在の研究では「神風は一回だけだった」「来たことは来たがそれほど被害は大きくなかった」「ってか一回も来なかった可能性も否定できん」で、日本側も初期からかなり、迎撃の勝算はあったみたいね。本州からの援軍が到着する前に終わったから。
2018-02-08 02:15:09ってか当時の歴史書で、比較的事実と思われる項目とか、けっこうなにげに鎌倉武士狂戦士だからなぁ。「あっち五百人くらい固まってますね」「こっち何人?」「七十人くらいッスね」「よーし一狩り行くかぁ!」みたいなノリだもん、鎌倉武士。
2018-02-08 02:17:19そもそもがどれだけ大量の陸戦兵力をもっていても、海を渡って進行するのは至難の業で、それは現代でも変わらずで、北の三代目が百万の兵を持ってても、米国まで送る手段はないので、それなら海越えて届くミサイル作ったほうがいいって判断したのよ。
2018-02-08 02:21:51(最初の)元寇は威力偵察説
いま元寇関連でまとめ作成中だけど、「元軍(少なくとも第一回目は)威力偵察説」というのもある。だから第一回目は早々に撤退したのだと。 それもちょっと収録しておこう
2018-02-08 02:27:47何を今さら。元寇での元の敗因が暴風雨であった説は大分前から否定されている。文永の役は元の威力偵察・示威行為の面が強い。弘安の役では鷹島沖海戦などで元軍に打撃を与えて太宰府占領を断念させている。 / “勝因は「神風」ではなかった?…” htn.to/esf9uu
2017-01-08 14:47:31元寇に対するイメージは子供のころ習った話と今になっての内容が違う話の一例のような気もするね。名乗りとか牧歌的だった鎌倉時代武士が圧倒されたものの神風で…ってイメージから、威力偵察に上陸したら坂東武者進化系な地方守備隊が手勢をかき集めて(混乱はあれど)苛烈な反撃で撃退みたいな。
2017-12-01 09:27:00@StUpIdKeNgO 元寇って、あれ、一度目は元の威力偵察だったんですよ。 んで、当時の日本の合戦作法に則らずにいきなり攻撃をしかけて来たので、多数の損害を被りました。 だけど偵察なので、有る程度様子見して撤退していったんですね。
2015-09-22 23:41:40@StUpIdKeNgO んで、二度目の元寇の時。これがいわゆる神風のおかげで助かったといわれる戦いですが、一度目の威力偵察で元のやり方を学んだ大和武士は、次に来た時のために対策済みでした。 合戦作法を無視する元に対して、小舟で相手の船に乗り込む夜襲を仕掛けたのです。
2015-09-22 23:44:31@StUpIdKeNgO その結果、武士を侮っていた元は接近戦でボコボコにされます。 しかも元の船団には、戦勝後に移住する非戦闘員も多かったので、数程の脅威では無かったのです。
2015-09-22 23:46:49