2/11 山本菅助展

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日光81 @nikko81_fsi

さて、八代山本菅助晴質の時代の話。大河内文書「御用御取次年中行事」に興味深い内容。正月十五日に高崎藩の御披行事にて、御小書院にて赤表紙甲陽軍鑑一箱二十冊に信玄公、諸葛孔明、謙信公、山本菅助、香坂弾正、馬場美濃の肖像を飾る習わしがあったとか。ここに孔明が出てくるところが・・・・

2018-02-12 00:35:05
日光81 @nikko81_fsi

丸島先生の図録寄稿の話とつながってくる。虚像たる「山本勘助」像の成立と慶長年間い流入したと推定される「三国志演義」との関係。三国志演義における諸葛亮のイメージこそ、日本の軍師像の源流ではないか、とのこと。そして小幡景憲はじめ軍学者が「軍師」ということばを使い始め・・・・

2018-02-12 00:47:35
日光81 @nikko81_fsi

元禄に至って、三国志演義が漢文ではなく和訳されて流布。元禄~享保年間で庶民にも人気を博すようになるなかで、浄瑠璃「信州川中島合戦」(初演享保六年<1721年>)で演義のエピと川中島合戦の登場人物に重ね合わせる表現が出始める。八代菅助晴質が生きたのはその60年~70年後。

2018-02-12 00:53:24
日光81 @nikko81_fsi

その頃には年中行事に信玄公はじめ、馬場、香坂、初代菅助に並んで諸葛亮が加わっているのが、なんともおもしろい。

2018-02-12 00:54:09
日光81 @nikko81_fsi

最後に。駒井高白斎と山本菅助の、甲陽軍鑑における甲州法度をめぐる関係。確かに駒井の関与が一切出てこず、山本菅助に駒井の事跡を重ね合わせ、虚像「山本勘助」ができている面はあるのだろうなと思うのだけど・・・

2018-02-12 00:58:37
日光81 @nikko81_fsi

駒井が内政・外交・軍事に幅広く関与したこととが、信玄の掟を守る軍事派を立て、吏僚派の勝頼側近を貶める文脈で都合が悪いから、存在を消されてるといえるのかどうか・・・むしろ甲陽軍鑑は香坂弾正から見た世界観。香坂が出世しだすのは天文末期、駒井の活動もほぼ天文期。

2018-02-12 01:04:04
日光81 @nikko81_fsi

香坂と駒井はほぼ年代的にすれ違っていると思われ、あまり面識もなかったのではないか。それを取り持つとしたら、初代菅助だっただろう。香坂が意図的に駒井を消したというより、香坂よりやや先輩に当たる初代菅助から伝聞した誇張した話がそのまま香坂の記憶となり、甲陽軍鑑に結実したように思えた。

2018-02-12 01:07:14