「お客様は神様です」という言葉と愛社精神・サービスの質について、あるいはデリダ「散種」可能性について。
@yutakioka なるほど。一断面からの着想と実証的蓄積を経たのち、解釈の枠組み、ストーリーを作るのが哲学であると。大陸系ラディカルレフトの現代思想は、そうしたストーリー作り自体の暴力性を指摘しますね。90年代以降は特に強かった印象がある
2011-04-05 01:58:51ええ。そして当然その暴力性を認識しながらいかにアイロニカルにできるかが鍵です。RT @sukuraia 一断面からの着想と実証的蓄積を経たのち、解釈の枠組み、ストーリーを作るのが哲学であると。大陸系ラディカルレフトの現代思想は、そうしたストーリー作り自体の暴力性を指摘しますね。
2011-04-05 02:07:05確かにそれも未決定性ですねRT @bornekiller 意味内容を社会の変容に影響受けずに長らえようとすると抽象化していく傾向にあるてこと。例えば子は鎹なんて言っても今の人には意味がわからないかも。それは鎹てものを見なくなったから。。。のような。馬鹿なこと考えてます。(笑)
2011-04-05 02:07:59@yutakioka んで、哲学者と文学者は悩みつつ書く。言語が生きてくてのはそゆ営みなんでしょね。最も哲学は時代を超えた普遍性を目指すし文学はその時代に新たに付け加えられた何かを描出するけど。
2011-04-05 02:10:21@yutakioka まあ、ポスコロ、カルスタは英米でも強く、むしろカルスタは英国起源でしょうが…ある程度の相対主義を受け入れても、認識を深めたり政策に援用するには最終的にストーリー作りは必要になりますからね
2011-04-05 02:10:36鎹みますよ。よく見ますけどね。RT @yutakioka: 確かにそれも未決定性ですねRT @bornekiller 意味内容を社会の変容に影響受けずに長らえようとすると抽象化していく傾向にあるてこと。例えば子は鎹なんて言っても今の人には意味がわからないかも。
2011-04-05 02:12:12しかし、それにしても、まさしくデリダの言う「散種」の問題の話で、パフォーマテイヴとコンスタテイヴの区別がつかないといういい例がでるとは思わなかった。「お客様は神様です」これで多くの解釈ができる時点で、意味は恣意的だからどの意味で解釈するかは問題にならないのは自明なのだが。
2011-04-05 02:12:17RT @sukuraia: @yutakioka なるほど。一断面からの着想と実証的蓄積を経たのち、解釈の枠組み、ストーリーを作るのが哲学であると。大陸系ラディカルレフトの現代思想は、そうしたストーリー作り自体の暴力性を指摘しますね。90年代以降は特に強かった印象がある
2011-04-05 02:12:25@yutakioka まあそうなのですが、ただあまりアカデミズムの言語だらけだと開かれていないので、わかりにくいのは多少不正確でもわかりやすくするのが対話の際の礼なのでしょうね。コモンセンスだったらその場の流れとか、要は言葉って緩いんだよ~みたいな言い直し
2011-04-05 02:12:36ええ、しかし仏蘭西現代思想ではその垣根は低くなっていますね。 RT @bornekiller んで、哲学者と文学者は悩みつつ書く。言語が生きてくてのはそゆ営みなんでしょね。最も哲学は時代を超えた普遍性を目指すし文学はその時代に新たに付け加えられた何かを描出するけど。
2011-04-05 02:13:15たしかに、そうですね~。そこが難しいところですね~。RT @sukuraia まあそうなのですが、ただあまりアカデミズムの言語だらけだと開かれていないので、わかりにくいのは多少不正確でもわかりやすくするのが対話の際の礼なのでしょうね。
2011-04-05 02:14:34.@yutakioka 翻訳する能力はただ思想を展開するより時に難しいし、噛み砕きすぎてもいけませんからね。さらに専門家間でも解釈が分かれる(笑) 今回の震災でその手のコミュニケーション不全は広く問題になりましたね。コミュニケーターとしての翻訳者はどの学問にも貴重
2011-04-05 02:16:58哲学の文学化はショーペンハウアー、ニーチェ、ハイデガー辺りが近代では起点ですね。カルナップのハイデガー批判に、英米と大陸思想の違いがよく現れている RT @yutakioka: ええ、しかし仏蘭西現代思想ではその垣根は低くなっていますね。 RT @bornekiller
2011-04-05 02:19:38@yutakioka なんでも形而上化していくそういう堕落から、引き戻してくれるのが論理学だと言うのは古典的かも知れないけれど、多分こういった気持ち悪さのなかにに共通してるんですよね。
2011-04-05 02:32:58ええそこでクワインが少し軌道修正をしたんですが、未だに乖離があります。RT @sukuraia @bornekiller 哲学の文学化はショーペンハウアー、ニーチェ、ハイデガー辺りが近代では起点ですね。カルナップのハイデガー批判に、英米と大陸思想の違いがよく現れている
2011-04-05 02:33:40でしょうね~。RT @sturok なんでも形而上化していくそういう堕落から、引き戻してくれるのが論理学だと言うのは古典的かも知れないけれど、多分こういった気持ち悪さのなかにに共通してるんですよね。
2011-04-05 02:34:32@yutakioka さらにそこに、ある種決定打としてのサイエンスウォーズが来ると。いまだにその溝は深いですね。文系の理系コンプレックスというのも、日本ではやや強い気もしますし。日本の文系知識人と大衆の距離の近さが、知識人の後ろめたさと大衆のルサンチマンを生んだという指摘もある
2011-04-05 02:36:20いや、ここでも同じで、辞書に載っている意味は根拠にならなくてカルナップによれば、事実判断は科学的に証明可能か?あるいはその概念が科学の特殊概念であるか?であるべき。RT @spkgo ご質問の件ですが「アピール」を大辞泉で調べると「人々や世論などに広く訴えること」とありますね。
2011-04-05 02:36:43.@yutakioka 距離の近さ、というのは、高田氏が主張したような、教育での階級未分化などですね。日本思想という病での講演を参照しました
2011-04-05 02:37:28だから「アピール」という言語があなたの価値判断ではなくて事実判断であることを示すためには、辞書的な意味とは関係なくて私の場合はカルナップの意味での基準を満たす必要があります。RT @spkgo そう考えると「俺はこんなに詳しいんだぞ」とアピールする以外に理由が見当たりません。
2011-04-05 02:38:50これも違います高確率というのもそれをサンプリングする母集団によりますからその母集団を恣意的に操作できるので、高確率とも低確率とも言えません。ですからこの主張は証明不可能なのですべきではないのです RT @spkgo もちろんそれが確定的だとは言いませんが、高確率だといえますね。
2011-04-05 02:41:14科学では通用しない。私は語り得るべきことは科学的あるいは論理的に証明できることでなければならないと考えています。ですから証明の基準が違うのです。RT @spkgo 事実の立証が困難な場合は、「それ以外に考えられない」ということを立証する方法です。裁判で言うところの状況証拠です。
2011-04-05 02:42:55また連座制の誤謬社会でどうとかと私の主張は関係ありません。しかも論理的誤謬。論理的思考ができないので終了しますではまた。まとめに追加しておきますね。RT @spkgo 典型的なカブレですね。知識はあるようですが、知識の使い方を知らないようですね。社会的には評価を得ないでしょう。
2011-04-05 02:47:03@yutakioka つまりあなたは知識はあっても、人に物を伝える、主張を伝えるというコミュニケーションに問題があるといえます。そしてあなたは自分をなんとか優位に見せようというところだけに躍起になっているため支離滅裂な状況になっていますよね。「私は語り得るべきことは科学的あるいは
2011-04-05 02:48:08