- tomoshibi6o6o
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教皇への就任願望は、万年資金難による金欠という解釈もあるが、「自家を選ばれた一族」であると確信し、「我こそはキリスト教徒で最高の任務を遂行すべき使命を帯びている」という確信からであった。
2018-02-19 20:53:30それゆえマクシミリアンは当時の先端の科学、〈宇宙〉にも関心を寄せた。 宇宙は神の世界だと思われていたからであった。 「そしてその中で帝国は中央にあり、それを支配するオーストリア家(ハプスブルク家)は庇護者である」と、その証明をしたがっていた。
2018-02-19 20:56:07マクシミリアン1世の一族理念「ハプスブルク家は選ばれた一族であり、神の地上における代理人である」ゆえに教皇座に就くべきである、と話した。 しかしマクシミリアン1世が初めてではない。父帝フリードリヒ3世が先に 「ハプスブルク家は神からキリスト教世界の護持という使命を託された特別な一族」
2018-02-19 20:57:42という理念を示した。フリードリヒ3世は「一家の指針を示す役割」を果たしたのだった。 この「神より選ばれた一族」という考えは、マクシミリアンの孫カルロス1世を経てスペインの、「カトリックの庇護者」という立場を形作り…
2018-02-19 20:59:59オーストリア系においては皇帝フェルディナント2世がそれを引き継いで、お抱えの学者や懺悔聴聞師に、ハプスブルク家の「選ばれた一族」感覚を補強させた。 これは更にその子孫レオポルト大帝にも引き継がれ、マリア=テレジアを通じて、その後の一族の意識に影響を与えた。
2018-02-19 21:01:45マクシミリアン1世ですらこれなのに、その孫、カール5世を書こうとすると全くもって書けないほどの情報量。同時に複数のことが欧州内外で起き、これに絡んでいる。 マクシミリアン帝の英邁さをもってしても混乱した欧州の事態は根本的解決には至らず、より混迷化して孫カールに降りかかった。
2018-02-19 21:22:36マクシミリアンのあてもない旅にも負けないほどの、遠大な思想。 これ、1400年代後半の人間だぜ? 今から500~600年も前。 しかも作家とかではなく、「皇帝」と。
2018-02-19 21:28:16今回のお話の出典。 pic.twitter.com/54ij3vVtzd
2018-02-24 20:24:09あ、皇帝フリードリヒ3世の身長が書いてありますね。 180センチだったとのこと。 (当時では外れて高かった)
2018-02-24 20:23:13…カール5世の話をしよう。 シャルル・ド・ルクセンブルクは16歳で「スペイン王カルロス1世」となり、19歳で「ローマ皇帝カール5世(カロルス5世)」となった。 彼の統治の基盤となったのは、偉大な祖父帝マクシミリアン1世だった。 …マクシミリアン1世の話をしよう。 (話のすり替え)
2018-02-24 18:41:48マクシミリアン1世の始まりは、ブルゴーニュへの憧憬にあった… 陰鬱なウィーンの宮廷から出て、まさに「新世界」を目にした若き皇子は、この地を統治するシャルル突進公に騎士の憧れを見出すのだった。
2018-02-24 18:45:06「マクシミリアンは様々なことに着手した。生涯に渡って大計画を立てたが、その中で実現できたのはごくわずかだった。 《じっと忍耐強く耐えて待つべき所で、彼(マクシミリアン)は気の向くままに行動した。》 時として朝に下した決定を、それが正しいと確信しながらも、夕べには撤回したりした」
2018-02-24 18:50:55「彼(マクシミリアン)の想像力は果てしなく、彼はその世界の中で生き、それに支配され、衝き動かされた。 《自己を抑制したり、自分自身に疑問を抱いたりすることは、彼には無縁だった。》 多種多様な事柄を全て同時に片付けようとした彼は、ほとんど何一つとして顧問たちに委ねなかった」
2018-02-24 18:53:41「その理由は、ひとつには《他人を信頼するな》ということを父帝(フリードリヒ3世)から学んでいたからであり… 彼(マクシミリアン)は物事を熟慮するということがほとんどなかった。父帝がいつも躊躇し、絶えず疑念に苦しめられていたのと正反対だった」
2018-02-24 18:56:16マクシミリアン1世は肉体的にも精神的にも常に活気が満ちており、いつも昂揚とした状態にあったために若さを維持できた。 同時代の多くの人が、皇帝について「絶えず若々しさを保ち、年齢を感じさせなかった」と記述している。
2018-02-24 18:58:28若き皇子マクシミリアンは、父帝に付き添ってトリーアに赴いた。 そこで待っていたのは、ブルゴーニュ公シャルル《突進公》であった。 フィリップ善良公から継承し、フランス東部から帝国西部に跨る広大な「ブルゴーニュ公国」を統治するこの公爵は、神聖ローマ帝国の皇帝位を得ようとした。
2018-02-24 19:01:42娘マリーと、若き皇子マクシミリアンを結婚させて、ブルゴーニュの継承権を譲る代わりに皇帝位の継承者《ローマ王》を我が頭に! それがシャルル公の野望だった。 シャルル突進公という人物は…後に野望の中で不意の死を遂げるのだが、とにかく華美を好む人であった。
2018-02-24 19:04:04シャルル公は金に関しては煩い皇帝フリードリヒ3世を萎縮させようと、ブルゴーニュ家の家宝すべてを陳列させた。馬車400台を連ねて展示される宝石。 従う騎士もまた、華麗で意匠を凝らしたものだった。皇子マクシミリアンの目は輝いた。 シャルル公も、この若い皇子に好感を抱いた。
2018-02-24 19:07:36しかし《ローマ王》の野望を拒絶されシャルル公は帝国に侵攻、皇帝は腹心の将軍アルブレヒト3世・フォン・ザクセンを仕向けて戦火を交える。 シャルル公は南部にも勢力を伸ばしロレーヌとスイスを攻撃したことで、フランスとスイス傭兵の支援を受けたロレーヌ公ルネ2世と、ナンシーで争った。
2018-02-24 19:10:27このナンシーの戦いでシャルル突進公は敗北して見捨てられ…重傷を負ったまま森の中に見捨てられた。 家臣が主君を見つけたとき、遺骸は鳥獣らに食い荒らされていた有様であった。
2018-02-24 19:12:37しかし、シャルル突進公に対してマクシミリアンは騎士の憧れを見た。 敬意を抱き、偉大な実行力のある支配者と思っていた。
2018-02-24 19:15:18父帝フリードリヒ3世と正反対で、マクシミリアンにはこの義父シャルルの方が自分に通じるものを感じていたのかもしれない。 生涯を通じて起こる難局に対し、マクシミリアンはしばしばこう漏らした。 「シャルル公がまだ生きておられればなぁ…」
2018-02-24 19:16:08最後のブルゴーニュ継承者となった突進公の娘マリーを狙って、周辺国が動く。 ここでブルゴーニュ宮廷は、この公女が皇帝の息子と婚約していたことを思い出した。 「オーストリアのハプスブルク家なら遠く離れているし、あまり好き勝手されることはないだろう」 と宮廷は決めて、皇子に救援を求めた。
2018-02-24 19:19:45マクシミリアンは辛く、決して短くない旅路の果てにヘントにたどり着いた…後に、1500年に嫡孫シャルルが生まれる地である。 夜11時になって着いたマクシミリアンは、そのままマリーと対面した…
2018-02-24 19:23:23マクシミリアンは結婚契約を随行すると誓い、マリーに贈り物を手渡した。 それは《父帝フリードリヒ3世の宝石コレクション》のひとつ、ダイヤモンドの指輪だった。 フリードリヒ3世はこれらコレクションを死ぬまで手放さなかったが、これだけは例外だった。 その価値は4000グルデン(約5億円)。
2018-02-24 19:31:37