- tomoshibi6o6o
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ブルゴーニュ宮廷は「あのケチな皇帝が!」と眩いばかりの煌きに驚き、この光景に酔いしれた。この宝石の起源については、フリードリヒ3世が若い頃に聖地巡礼した際に自らオリエントから持ち帰ったコレクションではないかとも類推される。 とにもかくにも、貴重なコレクションのひとつを与えたのだ。
2018-02-24 19:35:31夜11時。マクシミリアン皇子が到着。 夜12時。祝宴が行われる。 夜1時。皇子と公女がどこかへ引っ込んでしまい、残された人は「主役がいないのにこれ以上やっても仕方ない」と祝宴が終わる。
2018-02-24 19:37:38「それ以後のことは、わしゃ知らぬ」 ----結婚祝いで酔っ払ったマクシミリアンとマリーを寝室に連れていった騎士が後に語った言葉
2018-02-24 19:39:54「ハプスブルクの若者〈マクシミリアン〉は精力絶倫である」 ----当時のブルゴーニュ宮廷の噂 「絶倫王」 ----マクシミリアンを指してブルゴーニュ国内で付けられたあだ名 実際に結婚から1ヶ月ほどで懐妊してるんで…その…
2018-02-24 19:41:58マクシミリアンは美声で(嫡孫カール5世も美声だった)知られ、披露すると喝采が起こった。オーストリアの故郷の歌を披露すれば、拍手が巻き起こった。 マクシミリアンとマリーは、シーザーとクレオパトラに変装し、ティトゥスとネロを従えて、宮廷を闊歩した。 誰だかを当てさせて、大笑いした。
2018-02-24 19:47:15マクシミリアンは言葉と絵を通じて、フランス語の習得を図った。 その習熟の速さもさることながら、その絵の題材に「トロイアのプリアモス王」があった。父帝フリードリヒ3世は、先祖をこの王にまで遡ろうとした。
2018-02-24 19:51:34後にマクシミリアンは、フランス王家に対する優越性のために、メロヴィング王朝の血筋…開祖メロヴィクスの祖父ファラモンは、プリアモス王の直系子孫にあたる…を主張した。 更に遡らせ、「ハプスブルク家の出自は確かに人類の始まりにまで遡ることができる」という証明すら行おうとした。
2018-02-24 19:52:32マクシミリアン1世の異名については「中世最後の騎士」が伝わるが、他には「逃げ足の速い皇帝」も残っている。これは絶え間なくヨーロッパを駆け回ったからであった。
2018-02-24 19:53:41マクシミリアンとマリーは暖かく燃える暖炉のほとりに座り、心和むひと時を過ごす夕べがことに好きだった。ふたりとも幼い頃にチェスを習い、よく戦ってお互いを好敵手とした。 この他にも驚くべきまでに興味の対象も一致し、例えば狩猟でも共にした。
2018-02-24 20:01:31マリーは馬術でも狩猟でも忍耐強く、いかなる駿馬でも猛犬でも従えた。 猪を追い掛け、飛ぶ白鷺すら射落とした。何事に対してもマクシミリアンにひけを取らなかった。 マクシミリアンはマリーが何事にも行動を共にすることが嬉しかった。
2018-02-24 20:03:59マクシミリアンがマリーに適わなかったことに、スケートがあった。 自分にその才能のないことをマクシミリアンは悟った。だが諦めず、ネーデルラント人のスポーツの習熟に努め、マリーも忍耐強く教えた。 水面が凍る時期になると、マクシミリアンは人々に笑われながら氷上に引っ張られていった。
2018-02-24 20:07:18マクシミリアンが生まれたとき、父帝フリードリヒ3世の占星術師は「皇子の星辰は《第七宮の太陽》を示しており、抜群の才能がある」と告げた。 しかし再び星辰の予言では、「皇子は息子は1人しか恵まれず、愛する人と早々に別れる宿命」にあることも告げていた。 創作かはさて、その通りになった。
2018-02-24 20:12:47ある日、共に狩りをしている際にマリーが落馬した。その上に馬が倒れた。 肋骨がひどく折れながら、マリーは「マクシミリアン以外の男性に触れられたくない」と診察を拒否した(これはその孫カールの妻イサベラも、同じようなエピソードがある)ため出血多量となった。
2018-02-24 20:15:37マクシミリアンは狼狽え、我を忘れて灰を頭に被った。 ミサを何度も何度も執り行わせたが、効果はなかった。 マリーは最期に「ああ、まもなく私たちは別れなくてはならないのね」と言い残して、家臣に「何か迷惑をかけたのなら、許してほしい」と伝えた(嫡孫カールも退位宣言で同じことを発言している)
2018-02-24 20:18:22マリーが亡くなると、マクシミリアンは永遠に孤独になるのだった。 この世の幸せはもう無く、一生の間マリーの死を嘆いた。 そしてヨーロッパを放浪する、「中世最後の騎士」と呼ばれるようになる、あてもない旅が始まったのだった。
2018-02-24 20:20:37マクシミリアンが「オーストリア=ブルグント家」を名乗ったのは、妻マリーへの敬愛の念から…ってのは割とあるかもしれない。 普通は、特別に婿として継承したのでなければ婚姻した相手の家までは名乗らないのが当時のしきたり。 そんな中でこう加えたマクシミリアンは、特別な愛情を抱いたのかな。
2018-02-24 21:53:26しかし中世~近代のハプスブルク家は、皇帝フリードリヒ3世風にいえば「星辰に呪われてる」としか思えない。 フリードリヒ3世もマクシミリアン1世も妻には早くに先立たれ、フィリップ美公は若死し妻フアナは発狂。カール5世は欧州を駆け回り妻イサベラは早世。
2018-02-24 21:57:16マクシミリアン1世からフェリペ2世まで、親が空白の孤独な家庭に育った。それなのに肉親に対しての親愛の深い情を忘れず、見せてきた。 スペイン系ハプスブルク家は晩年に後継者が生まれることが多く、幼王の家庭環境にしばしば空白が生じた。
2018-02-24 22:00:54対してオーストリア系は、カール5世の弟フェルディナント1世とハンガリーのアンナのように…「幸せなオーストリア」の言葉通り、その結びつきは幸福なものが多かった。 多くの子に恵まれ、その家族画も残されている。
2018-02-24 22:03:09「どうしてスペイン系は家庭環境に課題が生じ、オーストリア系は円満な家庭を築くことができたのか?」という疑問の答えは…ないかもしれない。 だが、オーストリア系とスペイン系は互いに強く結びつき、スペイン系の没落に至るまで強い関係を築こうとした。
2018-02-24 22:05:13再引用になるが、こうした「一致して、団結して」というマドリード宮廷とウィーン宮廷の関係は、それぞれの開祖である《カール5世とフェルディナント1世》兄弟から続く、深い親愛の情があるとしたら面白い…
2018-02-24 22:08:18末期スペイン系ハプスブルク家の意識は、「遠いオーストリアの同族よりも、隣国フランスの方がスペインのために良い友人たりえる」という方に流れ、最後の国王カルロス2世は帝国の相続について 「まずアンジュー公フィリップ(ルイ14世の孫)を相続人に指名する。彼が拒否して、オーストリアに継がせる」
2018-02-24 22:16:26といった方針を宣言してたんだけど、これはカルロス2世が幼少で父フェリペ4世を失ったこと、また三十年戦争でフランスに勝てず領土割譲、大国スペインの衰退…というムードからくるものがあったのではないかと思う。 (個人的には現実的な選択だと思う、これはカルロス2世が白痴ではない証左ではないか)
2018-02-24 22:18:43