帰責原理とプラグマテイズム:Internal/External Reasonを超えて。
RT @yutakioka: それで、おっしゃられるように、このような例ではそれが決定できないんですね。だから、私はあの区別は意味がない、と考えます。 RT @spicy_cocktail 薬物中毒、飲酒、遺伝子、病的因子などなど internal reason それともexternal reason?
2011-04-07 12:48:38RT @yutakioka: 興味深い例を挙げて下さった方がいらっしゃったので紹介するが、external/internalの区別ができない例として、薬物中毒や飲酒などがある。私の考えの場合、当然、区別はしないので、よってセクハラをしようが、酔わずにそういった犯罪を犯そうがどちらも同じ。
2011-04-07 12:49:00RT @yutakioka: それで、このinternal/externalのく別をなくすともう一つ利点がある。それは例えば性犯罪が起きたとして、性犯罪の被害者に対して、「おまえが短いスカートをはいていたから悪い」と言った性犯罪加害者の理不尽きわまりない、いいわけを無効にできる。
2011-04-07 12:49:40RT @yutakioka: この言質が意味を持つのは、その犯罪原因をexternalにすれば、自分は望んでいないがたまたま、そうなってしまったということになる。意図が問題なら、この場合、積極的につまり、internal reasonにより犯した犯罪との間に差がつくことになる。
2011-04-07 12:50:19RT @yutakioka: だから、現在の裁判ではこの辺が争点になることも珍しくないのだが、あの区別を撤廃して、性犯罪をいかなる理由で行おうと、その犯罪の結果に対して責任をとらせる、という形にすれば、ここが争点にならず、裁判での性犯罪被害者の心理的負担、二次被害を軽減することができる。
2011-04-07 12:50:34RT @yutakioka: つまり「性犯罪をされる方が悪い」とか「差別をされる方が悪い」とかいう、internal reasonをextranal reasonに偽装しようとする言説すべてを無効にでき(結果のみが問題なので)、それがどうであれ、加害者の責任を問うことができるので合理的と思える。
2011-04-07 12:50:45RT @yutakioka: 酩酊でも中核意識は普遍なので、人格の同一性は保たれると考えられます。生理学的環境が異なるだけで。RT @ikazuravosatz そうですよね、依存症等と単純に比較はできないにしても、理性という観点を入れると酩酊も「程度問題」として同じ分類の扱いになってしまう。現状では。
2011-04-07 12:50:59RT @yutakioka: それは嘘をついたことが合理的・科学的に立証できれば嘘によって冤罪被害を受けた人に対してその嘘の結果の責任を当然とるということですね。なんら特殊な例ではないですね。RT @lunticy 被害者の方が金銭目当てでやってもいないのに痴漢されたとうそつく場合はどうなりますか?
2011-04-07 12:51:42RT @yutakioka: つまり、一般的にいえば、犯罪に対して、意図的な犯罪行為の結果か、未必の故意であったかどうか?を問わないですむということになる。
2011-04-07 12:51:46性犯罪については、これが一番合理的に思える。ただ他の犯罪については、結果だけを問題にすると言っても過失や善意・悪意の概念は必要だろうな。 RT @yutakioka: 裁判ではこの辺が争点になることも珍しくないのだが、あの区別を撤廃して、犯罪の結果に対して責任をとらせる形に
2011-04-07 12:52:26RT @highok: カントにおける「純粋理性/実践理性」概念とは、どのような関係になりますか? たとえば「external/internal」を区別しないことは、「純粋理性/実践理性」の区別も無意味にするのか。 QT @yutakioka external/internalの区別
2011-04-07 12:53:01RT @highok: カントが「純粋理性/実践理性」を峻別するのは、人間の自由意思を担保するため。「external/internal」の区別をプラグマティックに無化することは、さしあたって「自由意思」をないものとして物事を処理すること。
2011-04-07 12:53:05RT @highok: とすると、「external/internal」を区別しないことによって、要は事象の処理に際して「自由意思」を一切考慮に入れないということになりますが・・・そうなると古典的な問題に直面するはずで。というのは・・ RT @yutakioka ええ、そうなりますね。
2011-04-07 12:53:10RT @highok: 「自由意思」が存在しないと仮定して、ある事象が客観的な因果律の流れで記述した場合、「罪」の根拠を個人に求めることができるのか。罪は因果律に解消してしまうのではないのか。アリストテレス以来の難問です。 @yutakioka
2011-04-07 12:53:19RT @yutakioka: ええ、そうなりますね。RT @highok たとえば「external/internal」を区別しないことは、「純粋理性/実践理性」の区別も無意味にするのか。
2011-04-07 12:53:37RT @yutakioka: 私は自由意思の制定気が必要と考えていますRT @highok カントが「純粋理性/実践理性」を峻別するのは、人間の自由意思を担保するため。「external/internal」の区別をプラグマティックに無化することは、さしあたって「自由意思」をないものとして物事を処理すること。
2011-04-07 12:53:42RT @yutakioka: @highok ええ、これは私の言い方がまずいのですが、自由意思そのものを否定しているのではなくて、自由意思の意図とそれが常に直接行動の原因になるという必然的な両者の関係性について疑義を提出しているわけです。
2011-04-07 12:54:08RT @yutakioka: つまり、ある現象の原因は当然もの=テロスではなくて、人間の側にあるというのはカントと同意見ですが、常に行動の結果を自由意思だけにきするのは無理があるということです、偶然的な要因の媒介もあるわけで、その偶然性も含めて自由意思という定義をする必要があると考えて居ます。@highok
2011-04-07 12:54:14RT @highok: なんとなく了解です。「自由意思の領分」は確保した上で、それを度外視しても「客観的に罪の認定」が成り立つための技術。体系化するのは難しそうだけど、理屈としては分かった気が。 @yutakioka 自由意思の意図とそれが常に直接行動の原因になるという必然的な両者の関係性について疑義
2011-04-07 12:54:23RT @yutakioka: ええ、そういうことです~。ご指摘の通り体系化は難しいですね。 RT @highok なんとなく了解です。「自由意思の領分」は確保した上で、それを度外視しても「客観的に罪の認定」が成り立つための技術。体系化するのは難しそうだけど、理屈としては分かった気が。
2011-04-07 12:54:27ええ、もちろん概念は必要と思います、が、それを争点にしてはならないと思います。RT @easygoinghiroki 性犯罪については、これが一番合理的に思える。ただ他の犯罪については、結果だけを問題にすると言っても過失や善意・悪意の概念は必要だろうな。
2011-04-07 12:55:14まあ「自由意思」の領分では罪に当たらないけれど、「客観的事実」の領分では罪となってしまう。人間世界に普遍的に見られるこのような現象のことを、人間はギリシアの時代から「運命」と呼び習わして、「悲劇」の形で後世に残している。『オイディプス王』は、その典型。
2011-04-07 13:00:03ケルゼンはともかく,たきおかさんの議論は故意犯が念頭におかれている感じがする。刑法的には結果発生は帰責の当然の前提として,故意犯ベースで考えるか,過失犯ベースで考えるかの問題があるな。悪い意図でもって行われた行為の結果と,悪い意図がなく行われた行為の結果を同視できるか。(続
2011-04-07 13:01:24RT @highok: まあ「自由意思」の領分では罪に当たらないけれど、「客観的事実」の領分では罪となってしまう。人間世界に普遍的に見られるこのような現象のことを、人間はギリシアの時代から「運命」と呼び習わして、「悲劇」の形で後世に残している。『オイディプス王』は、その典型。
2011-04-07 13:02:45いや,そもそも小林憲太郎によれば,犯罪論体系は,故意か過失か,および違法性か責任かの組み合わせによって,理論的には4パターンある。いずれにせよ刑法総論の根本問題で,ボクにはまだ手が出せていない… しかし,帰責原理は法学的思考の根本問題なので,ボクにとっても無関係ではない…
2011-04-07 13:11:34