明治にドイツ女性と結婚した留学生・長井長義の話~もう一つの「舞姫」や「マッサン」(ヤスキハガネ氏)

今だって国際結婚は色々大変。それが明治時代、特に西洋の女性と…となれば、関係者や実家と様々な摩擦が生じ、うまくいかないこともあります。それを描いたのが森鴎外「舞姫」ですね。しかし、それでも愛を貫き、幸せな家庭を築いた「もうひとつの舞姫」の実例があります。それが「エフェドリン」発見者・長井長義氏。歴史に詳しいヤスキハガネ氏が、twitterでその生涯を紹介。さらに「舞姫」の背景なども
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ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

日本に行く船に森鴎外が乗ったのはフランスのマルセイユでの事なのですが、その4日前にエリーゼはドイツ北部のブレーマーハーフェンから【ゲネラール・ヴェルダー号】の1等席に乗って日本へ向かったとされています。おそらく二人で日本行きのタイミングを合わせたっぽいんですがどうでしょう。

2018-05-26 21:06:42
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

つまるところエリーゼが鴎外を追って来日した、というよりかは2人で示し合わせて来たのではということなんですが、そうするとどうして昨日書いたマッサンとリタのようにドイツで結婚するという既成事実を作ってから来日しなかったのかが問題になってきます。twitter.com/wiener_kongres…

2018-05-26 21:13:55
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

例えばマッサンの竹鶴政孝とリタの場合は、先にスコットランドで結婚して既成事実作ってから日本に戻ってきて何とか生活を続けてたんですが、そういう事を踏まえると長井長義の取った方法というのはちょっと異質なようにも思えます。謹厳実直とでも表現するんでしょうか。

2018-05-25 21:47:33
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

そうしなかったのは別に森鴎外が優柔不断だったというわけでなくて(少しはそうだったかもしれませんが)、当時の日本には【陸軍武官結婚条例】というものがあり、結婚の条件が非常に厳しく制限されていたことが大きな理由と思われます 詳しくはこのサイトからどうぞ→storage2017.jugem.jp/?eid=9

2018-05-26 21:20:21
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

摂津酒造の社員だったマッサンや国費で留学したはずなのに国からの帰国要請をブッチし続けていた長井長義と違い、陸軍一等軍医(大尉)として陸軍武官結婚条例によって縛られていた森鴎外の場合は先にドイツで結婚しておくわけにはいかなかった(したら即クビ)と予想されます

2018-05-26 21:29:13
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

詳しくはこっち側のツイートツリーに書いてますので良ければどうぞ↓ twitter.com/wiener_kongres…

2018-05-26 21:32:08
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

「舞姫」の小説でなくて史実の話をしたいんですが、1888年9月にドイツ留学から森鴎外が帰ってきて日本の地を踏んでから1週間も経たないうちに”エリーゼ・ヴィーゲルト”という名前のドイツ人女性が乗船名簿に現れます。

2018-05-26 20:49:26
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

更にややこしい事情が森家にはありました。親戚である西周が鴎外のドイツ留学中から彼の縁談話を持ってきており、西のオランダ留学仲間であり海軍中将だった赤松男爵の娘登志子との結婚を勧められていたことでした。(写真はオランダ滞在時の西) pic.twitter.com/9D0n5QGE97

2018-05-26 21:42:16
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どうも鴎外は赤松登志子とのこの縁談に乗り気ではなかったようで、少なくともドイツ留学の間は具体的に話が進んでいなかったようなのですが、その裏にはエリーゼとのことがあったためではないかと考えてもよいのではないかと思います。

2018-05-26 21:46:44
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

実家としては軍の高官である赤松男爵と姻戚になることは鴎外の陸軍内での出世を盤石にできると考え歓迎していたところにエリーゼが現れたわけなので、エリーゼが1か月でドイツに帰国してしまうほど猛烈な勢いで反発があったようです。

2018-05-26 21:55:31
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

エリーゼに鴎外との結婚を諦めるよう説得したのは鴎外の弟の篤次郎と妹婿の小金井良精(ショートショートで有名な星新一のお祖父さん)であり、あと陸軍の人も話し合いに居たのではとも言われていますがこの2人は確実にエリーゼと話をしたと思われます pic.twitter.com/7lpvnYmISX

2018-05-26 22:02:30
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ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

先程の縁談の話に戻るのですが、エリーゼが来日してから6日後の9月18日の西周の日記に「森ばゞ来り婚姻の返辭を述ぶ」という文言があります。これは鴎外の祖母の清が西家に来て、鴎外と赤松登志子との縁談を承諾するという返事がされたことを示しています。

2018-05-26 22:14:30
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

おそらくエリーゼの説得にあたっては、 ・既に(鴎外本人ではなく祖母の返答ですが)赤松家との縁談の承諾がされているのでそれをひっくり返すことはできないこと ・陸軍武官結婚条例により、陸軍卿の許可が必要だが鴎外の上官が外国人との結婚のために奥書(推薦書)を書くことができないこと

2018-05-26 22:21:02
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

↑の2点が説得材料となっていたのではないかと思われますが、最終的にエリーゼは10月17日に横浜港から欧州行きの船に乗りイタリアのジェノヴァで降りてドイツに帰り、以後日本の土を踏むことはありませんでした。

2018-05-26 22:27:11
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

エリーゼのドイツへの帰国について最後に少しだけ。「舞姫」の相沢謙吉のモデルになったと言われている賀古鶴所という鴎外にとっては最良の親友とも呼べる人がいるのですが、エリーゼのドイツ帰国にあたって鴎外に横浜港へ行って見送りをしてはどうかとアドバイスをしています pic.twitter.com/Am1ayIrXRm

2018-05-26 22:42:41
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ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

それに対し鴎外と義弟の小金井良精は元々エリーゼの出港の2日前(15日)に横浜へ送り届けて出港には立ち会わないつもりでいたようです。しかし直前になって鴎外は決心を変え、仕事を理由にして15日の予定をキャンセルし16日に横浜へ行きエリーゼの出港を見届けています。

2018-05-26 22:53:50
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

16日に鴎外と弟の篤次郎、義弟の小金井良精とエリーゼの4人は横浜に着いて馬車道や太田町、弁天通を散策した後に横浜の糸屋という旅館に泊まり、翌日エリーゼの船の出港を見送っています。この時の鴎外の心境はどのようなものだったでしょうか。

2018-05-26 23:02:59
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

鴎外の娘の杏奴が回想録でエリーゼについて、『この女とはその後長い間文通だけは絶えずにいて、父は女の写真と手紙を全部一纏めにして死ぬ前自分の眼前で母に焼却させた』と書いているのですが、これ以上は説明必要なさそうですね

2018-05-26 23:22:27

第3部 エリーゼの階級や親について

saebou @Cristoforou

鷗外の相手のエリーゼ、素性や階級はどうなってるんですかね?『舞姫』だとおそらくエリスのほうがかなり階級が下(それがあの小説のポ.. togetter.com/li/1231209#c50… 「明治にドイツ女性と結婚した留学生・長井長義の話~もう一つの「舞姫」や「マッサ..」togetter.com/li/1231209 にコメントしました。

2018-05-27 11:30:34
🏴󠁧󠁢󠁷󠁬󠁳󠁿yukikaze🏴󠁧󠁢󠁷󠁬󠁳󠁿 @yuki_bateauivre

@Cristoforou 長井の恩師が紹介したそうで、いいおうちの教育のあるお嬢さんだったようです。日本でも教鞭とるなどして女子教育の普及に尽くしたとの由。

2018-05-27 18:37:54
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

togetterまとめのほうからさえぼう先生のコメントを頂いたので、こっちでまとめてエリーゼの実家や社会階級について書こうと思います。 twitter.com/Cristoforou/st…

2018-05-27 19:25:34
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

エリーゼの正式名はElise Marie Karoline Wiegert(エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト)と言います。1866年9月15日生まれで、父ヨハン=フリードリヒ(以下フリードリヒ)と母ラウラ=アンナ=マリー(以下マリー)との間の娘です。下にはアンナという妹もいました。

2018-05-27 19:31:43
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

父フリードリヒは1839年生まれで若い頃はプロイセン陸軍に所属しブランデンブルク第三輜重大隊という所で勤務していたようです。エリーゼの母マリーと結婚したガルニゾン教会の結婚記録では職業欄に"Trainsoldat"という記載があるので軍の物流部隊の一員というのがわかります。

2018-05-27 19:43:53
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

父フリードリヒの仕事は1866年に結婚した時はプロイセン軍の兵士でしたが、同年に長女のエリーゼが生まれた時の教会の幼児洗礼記録では銀行の出納係と職業欄にあるので、除隊後に転職したと思われます。しかし結婚とほぼ同時に長女生まれてるってことは出来ちゃった婚っぽいですね多分。

2018-05-27 20:26:54
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

父フリードリヒは1880年(もしくは1881年)に家族3人を残して亡くなっているのですが、その後に母マリーが未亡人であったにもかかわらず自身の名義でベルリンの住居の賃貸契約を結んでいることに注意する必要があります。

2018-05-27 20:41:51
ヤスキハガネ💉💉💉 @wiener_kongress

というのも当時正規のルートで契約を結べるのは色々条件があったらしく経済的・社会的にある程度信用があったのではないかということです(多くの市民は又貸しとか又貸しの又貸しとかだったとか)。ちなみに当時の住所録に書いてあった母マリーの職業はNäherin(お針子)とありました。

2018-05-27 20:46:51