明治維新の三傑の一人・木戸孝允(桂小五郎)の生涯をまとめてみた

幕末の志士から明治維新を担った木戸孝允(桂小五郎)の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

同年8月15日に発表された新官制でも、両者の対立は表面化します。大久保は岩倉具視と共に副島と長州藩では保守的な前原一誠を参議に登用し、 木戸を自身と共に参議から外して実権のない待詔院学士に祭り上げようとします。しかし木戸と大隈ら木戸派の反発に遭い、また木戸と大久保が2人とも pic.twitter.com/nnSDZ2HWB5

2018-08-01 23:56:07
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参議から外れる不自然さは「世論紛々、諸官解体」という混乱を呈し、結局は三条実美と岩倉が収拾に乗り出し、大久保と木戸の盟友である広沢真臣、副島種臣の3人が改めて参議に任じられました。 pic.twitter.com/ZIGLaTUzS3

2018-08-01 23:56:08
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「版籍奉還」が行われ、藩主の家禄と藩の財政は分離出来ましたが、旧大名の実権は温存されたままでした。 また租税や軍事も今まで通り各藩に任されていた為、中央集権の成果は上がりませんでした。

2018-08-14 02:15:05
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1871年(明治4年)藩政を全廃し、中央集権を強力に進める必要性を感じた明治政府は先ずは薩摩・長州・土佐の3藩から10000人の御親兵を東京に集め、 政府の軍事力を固め、藩の抵抗を抑えた後の同年8月29日 一挙に「廃藩置県」を断行しました。 pic.twitter.com/JRRwjAljEv

2018-08-14 02:15:05
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御親兵とは明治初期の明治政府直属の軍隊で、天皇及び御所の護衛を目的として集められました。徴兵令による新式軍隊成立後は、近衛師団の元となります。 諸藩の中には負債で藩政を維持する事が困難になっていた所もあり、廃藩はほとんど抵抗もなく行われました。

2018-08-14 02:15:06
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これによって知藩事は罷免されて東京に居住する事を命じられ、新たに中央政府から雄藩の下級武士たちが府知事・県令として赴任します。 知藩事とは、明治時代初期に置かれた地方行政官の名称で県令(現:都道府県知事)の前身に当たる役職です。 pic.twitter.com/1vhwcfxC41

2018-08-14 02:15:06
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「廃藩置県」により府藩県の三治制は廃止され、東京・京都・大阪の3府と302県・北海道開拓使が設置されます。 また同年11月には3府72県に整理され、1888年(明治21年)には1道3府43県となりました。

2018-08-14 02:15:06
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幕末に締結された諸外国との条約が1872年(明治5年)に満期を迎える為、その前年の1871年(明治4年)その予備交渉と文物の視察で岩倉使節団がアメリカ・ヨーロッパに派遣されました。 この視察を勧めたのは当時、開成学校(現:東京大学の直接の前身機関の一つ)で教鞭をとっていた pic.twitter.com/DywdQDe1UI

2018-08-23 01:40:39
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オランダ人のグイド・フルベッキでした。※正式名はグイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック。日本語で発音しやすいようにフルベッキと称した事から、現在に至るまでこのように表記されています。 フルベッキは長崎時代の教え子・大隈重信に遣外使節団派遣の必要性を説いた pic.twitter.com/snMdYITuTI

2018-08-23 01:40:40
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「ブリーフ・スケッチ」を渡していました。これに基づいて使節団の派遣が決まり1871年12月23日(明治4年11月12日)大使に岩倉具視、副使に木戸孝允、 大久保利通、伊藤博文らが、記録係に久米邦武、そして津田梅子ら女子留学生を含めた43人の留学生が同行し、横浜を出港しました。 pic.twitter.com/PDuI7teeng

2018-08-23 01:40:40
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使節団はまず、アメリカで条約交渉について話し合いに臨みますが、交渉の為の全権委任状を持参しなかった事から交渉が中断。 大久保と伊藤が一旦帰国し、条約改正交渉の委任状を持って再渡米しますがアメリカは条約改正交渉には応じてくれませんでした。 pic.twitter.com/jvOIe7vaV9

2018-08-23 01:40:41
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そこで目的を先進国の制度や文物の視察に変更し、一行は行く先々で欧米先進文明について多くの知識を得て1873年(明治6年)9月13日に帰国しました。 岩倉使節団派遣中の留守政府首脳は太政大臣・三条実美、参議・西郷隆盛 板垣退助 大隈重信の4人でした。 pic.twitter.com/aEMNPWIhSC

2018-08-23 01:40:41
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派遣団と留守政府の間には「派遣団が帰国するまでは改革は行わない」という取り決めが有りましたが、実際には改革に着手せざるを得ませんでした。 1871年9月13日(明治4年7月29日)政府は清国との間に「日清修好条規」を締結します。この条約には、関税率の対等や相互領事裁判権などが

2018-08-23 01:40:42
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含まれており、明治になって初めて締結した対等条約です。しかし日本側はこれに不満が有った為、1873年(明治6年)にようやく批准されました。 1871年11月8日(明治4年9月26日)難破して台湾に漂着した宮古・八重山の住民が台湾の化外の民に暴行・殺害される「琉球漁民殺害事件」が発生します。

2018-08-23 01:40:42
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1872年4月には清国駐在公使・柳原前光から外務省に報告が有り、さらに6月になって生存者12人が那覇へ戻りますが、日本と清国との間で漂流民保護の責任問題が縺れてしまいます。 政府は不平士族らの強硬論に押され、西郷従道の指揮の下、台湾出兵が実行されます。 pic.twitter.com/DwdMySsdlk

2018-08-23 01:40:43
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一方、この出兵に反対した木戸孝允は下野します。その後、駐清イギリス公使トーマス・ウェードの調停で和議が成立。 1874年(明治7年)10月31日 大久保利通と恭親王により「日清互換条款」が締結され、琉球の日本帰属と賠償金50万両を獲得しました。 pic.twitter.com/DCz8BNF44j

2018-08-23 01:40:43
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1873年(明治6年)9月 岩倉使節団が欧米視察から帰国すると、西郷隆盛の朝鮮派遣が内定していました。朝鮮政府は鎖国制度を維持する為、 日本との国交を拒否して来ます。日本政府は朝鮮のこうした態度を「無礼だ」と憤り、軍隊を派遣しようとしました。

2018-08-25 01:59:27
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西郷は自分が朝鮮への使節となって交渉にあたり、もしもその場で自分が殺害されたら征韓の大義名分が立つと考えます。 帰国した岩倉具視らは内治の政治が急務だと西郷の派遣に反対します。その結果、西郷隆盛・副島種臣・江藤新平・板垣退助・後藤象二郎の5名が参議の職を辞し下野しました。 pic.twitter.com/ybJts5JPgm

2018-08-25 01:59:27
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後に下野した江藤らと結びついた不平士族らが「佐賀の乱」を起こした事がきっかけとなり岩倉や大久保利通らは「征韓論」を実行に移します。 これが「江華島事件」です。1875年(明治8年)9月 2隻の日本の軍艦が朝鮮の退去勧告を無視して海岸に接近し測量を行った為、 pic.twitter.com/EJro0lrimG

2018-08-25 01:59:29
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朝鮮軍は江華島の砲台から軍艦・雲揚に向けて砲撃して来ました。雲揚は直ちに応戦し、砲台を破壊。上陸した兵隊は永宗城を占領します。 翌1876年(明治9年)1月 全権大使・黒田清隆と副使・井上馨らが軍艦を率いて朝鮮に赴き、開国と貿易を要求しました。 pic.twitter.com/UgLtMxVQXT

2018-08-25 01:59:29
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1876年(明治9年)2月26日 幕末の時代、日本にやってきたペリーと同じように圧力で「日朝修好条規」が締結されます。 釜山・仁川・元山の開港、日本の領事裁判権の承認や日本の無関税特権などが規定された不平等な内容でした。 pic.twitter.com/OrhtpPetCZ

2018-08-25 01:59:30
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木戸は、幕末以来の課題である不平等条約の撤廃と対等条約締結の為に岩倉使節団の全権副使として欧米を回覧し、予備交渉と欧米視察を進め、 欧米の進んだ文化だけでなく、民主主義の不完全性や危険性をも洞察して帰国します。また、それまでの開明急進派の立場を改め、漸進派となりました。

2018-08-25 01:59:31
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しかし、欧米と日本との彼我の文化の差は甚だしいものでした。木戸は征韓論などは引っ込めて、内治優先の必要性を痛切に感じ、憲法の制定や 二院制議会の設置を積極的に訴え、国民教育の充実、天皇教育の充実に積極的に取り組みます。

2018-08-25 01:59:31
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木戸は西郷らが主張する征韓論や、大隈重信や西郷従道らが主張する台湾出兵には一貫して反対しました。 また、あくまで農民を不公正な税制と重税から解放する為に積極的に推し進めた地租改正や、武士の特権を廃止し彼らの新たな生活が立ちゆくよう、構想された秩禄処分が pic.twitter.com/LzNX7GTk0p

2018-08-25 01:59:31
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それぞれ逆効果となる形で実行された時には激しく反発します。そして、台湾出兵が決定された1874年(明治7年)5月には、これに抗議して参議を辞職しています。 木戸を明治政府に取り戻したい大久保利通・伊藤博文・井上馨らは、1875年(明治8年)8月 木戸を大阪会議に招待します。 pic.twitter.com/DXBcxq5v4N

2018-08-25 01:59:34
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