明治維新の三傑の一人・木戸孝允(桂小五郎)の生涯をまとめてみた

幕末の志士から明治維新を担った木戸孝允(桂小五郎)の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

板垣もこれに加わり、木戸と板垣は立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立を条件として参議復帰を受け入れます。 議会については元老院・地方官会議が設けられ、司法は現在の最高裁判所に相当する大審院が新たに設立される事になりました。

2018-08-25 01:59:34
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木戸自身の開明的な方針で 1868年(明治元年)の集議所、翌1869年(明治2年)の公議所など、国会の下院に相当するものを実際に構成し、機能出来る様、 当初から努めてはいましたが、江戸時代の封建意識そのままの各地の不平士族たちを出仕させて自由に発言させただけでは、 pic.twitter.com/NTFYOiiRly

2018-08-28 00:52:38
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維新の方針とも現実的な可能性とも乖離し過ぎており、時期尚早かつ、ほとんど非現実的で無意味なものでした。 また、これらの会議は「廃刀令」「四民平等」以前に行われた事で、薩長土肥以外の特権を奪われまいとする武士たちの不満の発散所でしかなかったようです。

2018-08-28 00:52:39
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現在の国会の衆議院に相当するものを模索し続けていた木戸は環境を整備し、タイミングを見計らった上で自ら議長として 1875年(明治8年)6月に行われた第1回地方官会議を挙行します。この時、採択された5法案は地方自治の確立を促進する法案でしたが、いずれもそのままの形では実施されませんでした。

2018-08-28 00:52:39
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1873年11月10日(明治6年9月21日)大久保利通により内務省が設立された際には「あまりにも強大で、強力な権限を持ちすぎる」として、 内務省設立を主導した大久保を批判していましたが、1874年(明治7年)2月に勃発した「佐賀の乱」以降は士族の反乱に対抗するには、 pic.twitter.com/pVzuVgiKVJ

2018-08-28 00:52:39
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太政官による警察力の強化と中央集権の徹底が必要だと思い直します。木戸は内務省による積極的な士族反乱への対処と、 さながら独立国化していた鹿児島県に薩摩藩出身者以外からの県令を派遣する事や、鹿児島県を太政官の方針に従わせようとします。 pic.twitter.com/2txHKkYN5A

2018-08-28 00:52:41
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また、木戸のお膝元の山口県で1876年(明治9年)10月に勃発した「萩の乱」では 反乱の首謀者であり、かつて徴兵令を巡って木戸と対立した経緯のある前原一誠を萩の臨時裁判所で審理させ、極刑にしています。 pic.twitter.com/Zs0j7AKc7W

2018-08-28 00:52:41
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1877年(明治10年)2月に西南戦争が勃発すると、かねてより西郷と旧態依然の鹿児島県(旧薩摩藩)を批判していた木戸はすぐさま西郷軍征討の任を希望。 また、大久保利通は西郷と会談したいと鹿児島への派遣をを要望しますが、大久保が殺されるのではと伊藤博文らから反対されます。 pic.twitter.com/n2Dj7Mg6o4

2018-08-28 00:52:42
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その後、西郷軍征討の為に有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)に任じ、国軍が出動、木戸は明治天皇と共に京都へ出張します。 ところが、かねてから重症化していた病気が悪化します。新国家建設の為に様々な困難に立ち向かってきた木戸でしたが、 pic.twitter.com/92FU4zXAP3

2018-08-28 01:58:25
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明治の時代に入ると様々な病気に悩まされていたそうです。慢性的な腹痛や下痢、また1873年(明治6年)には落馬して頭を強打し、 そこから頭痛にも悩まされていたようです。やがて左下肢も麻痺してしまい、不自由な生活を送っていました。

2018-08-28 01:58:27
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

西南戦争が勃発した頃には既に自力で立てない程に衰弱していたようです。 さらに1877年(明治10年)4月頃からは肝臓肥大も酷くなっていたともいわれます。 木戸はとてもお酒が強く、明治維新後に土佐藩主の山内容堂と意気投合し 互いの屋敷を往来しながら会えば酒を酌み交わす酒飲み友達で pic.twitter.com/Mx4YpCbCqP

2018-08-28 01:58:27
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その酒量も桁外れでした。容堂は酒害で1872年(明治5年)に積年の飲酒が元で脳溢血で亡くなっていますが、木戸にもその傾向があったかもしれません。 肝臓肥大は酒の飲み過ぎも関係しているので、ストレスからお酒を飲み過ぎた可能性も考えられます。

2018-08-28 01:58:28
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明治天皇の見舞いも受けますが、1877年(明治10年)5月26日 京都の別邸で朦朧状態の中、大久保の手を握り締め 「西郷もいい加減にしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後に、木戸はこの世を去りました。享年45歳。 pic.twitter.com/zTDBD3sSZu

2018-08-28 01:58:28
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死因についても諸説あるようで、肝臓肥大、腹痛のほかにも胸痛や胃癌などが挙げられます。また、生来生真面目な性格だった為、 苦しみの中でも明治政府の行く末を心配していた事から、ままならない新政権の運営を負担に感じ、寿命を縮めたともいえます。

2018-08-28 01:58:30
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

京都市東山区の京都霊山護国神社。多くの勤皇志士たちと同じ霊山墓地の一角に木戸孝允の墓所は在ります。 喧嘩を好まず、終生避けられる困難は逃げて回避し「逃げの小五郎」と異名を持つ木戸でしたが、病を避ける事は出来なかったようです。 pic.twitter.com/D3HFJkBsqZ

2018-08-28 01:58:30
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