明治維新の三傑の一人・木戸孝允(桂小五郎)の生涯をまとめてみた

幕末の志士から明治維新を担った木戸孝允(桂小五郎)の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

潜伏生活に入りました。やがて会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくると、但馬(現:兵庫県豊岡市)の出石に潜伏します。 朝敵となって敗走した長州藩に対し、さらに第一次長州征討が行われようとした時点で長州改革派は藩政権の座を降ります。

2018-06-15 21:41:44
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不戦敗及び三家老の自裁、その他の幹部の自決・処刑という対応で藩首脳部は責任を取りました。その後、長州保守派政権は改革派の面々を徹底的に粛清し始めます。 しかし、高杉晋作率いる改革派軍部は反旗を翻し、功山寺挙兵が成功、保守派政権による政治は終わりを迎えます。 pic.twitter.com/1St8vNirdV

2018-07-10 01:22:22
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その後、小五郎が潜伏している事を察知した高杉晋作・大村益次郎たちによって、小五郎は長州藩の統率者として迎えられます。 長州政務座に入ってからは武備恭順の方針を実現すべく、軍制改革と藩政改革に邁進しました。

2018-07-10 01:22:24
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長州藩は「八月十八日の政変」や「禁門の変」などで薩摩藩とは対立関係にありました。 ところが、長州藩は下関の攘夷戦争で欧米列強との圧倒的な軍事力の差を感じ、薩摩藩は「薩英戦争」で攘夷の無謀さを学びます。 pic.twitter.com/GHa9ZzRRYn

2018-07-10 01:22:24
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この結果、奇しくも薩摩と長州は期せずして開国へと歩み始めます。薩摩藩の西郷隆盛は第一次長州征討の時に幕府の軍艦奉行・勝海舟と面会。 この時 勝は「今後は幕府中心の政治ではなく、薩摩・長州などの雄藩連合政権を樹立し新しい日本を作らなければならない」と語りました。 pic.twitter.com/2NkaYyyomE

2018-07-10 01:22:26
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この時に登場してきたのが元・土佐藩士の坂本龍馬と中岡慎太郎です。龍馬は薩摩藩の保護の下、長崎で【亀山社中(=のちの海援隊)】という海運・貿易業を営んでいました。 当時、長州藩は幕府との戦争に備える為に新式の武器を欲しがっていました。 pic.twitter.com/P1gjUECnR2

2018-07-10 01:22:26
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これを知った龍馬は武器・弾薬を薩摩藩の名義でイギリスから輸入し、その見返りとして長州藩は薩摩藩に米を提供するという条件を提示します。 その結果、長州藩は亀山社中を通してイギリス人貿易商のトーマス・グラバーから武器を購入しました。

2018-07-10 01:22:27
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イギリス人貿易商のトーマス・ブレイク・グラバーは幕末期に日本に来日し、グラバー商会を設立。薩摩・長州・佐賀・幕府などに軍艦や武器の売買を行って莫大な利益を上げていました。 1865年(慶応元年)12月 幕府は第二次長州征討を決定。 pic.twitter.com/5lFt38GItl

2018-07-10 01:22:28
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これを機に龍馬に促された小五郎と薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀と仲介の龍馬の4名が京都で密会し、1866年3月7日(慶応2年1月21日)薩長軍事同盟の密約(=薩長同盟)が結ばれました。 幕府は第一次長州征討の後、長州藩主毛利敬親父子を江戸に召喚するつもりでしたが pic.twitter.com/U07gB5LcfX

2018-07-26 01:27:03
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朝廷から将軍の上洛を求められ、召喚出来ずにいました。同じ頃、長州藩では高杉晋作ら諸隊による反乱が成功し、再び藩論を討幕にまとめていました。 1865年7月14日(慶応元年閏5月22日)14代将軍・家茂は大軍を率いて江戸を出発し大坂城に入りここを本陣とします。 pic.twitter.com/YQHxt42oQf

2018-07-26 01:27:05
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度重なる長州藩の召喚拒否に対し、朝廷からも遂に長州征討の勅許を得られました。第二次長州征討は大島口(屋代口)芸州口・石州口・小倉口の四方面から長州藩を攻撃した事から「四境戦争」とも呼ばれます。 1866年6月7日(慶応2年4月24日)幕府軍艦は大島を攻撃し、占領しました。 pic.twitter.com/W1yiP6qpTx

2018-07-26 01:27:05
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これに対し長州藩は6月12日 高杉自ら丙寅丸を指揮し、夜陰に乗じて幕府軍を攻撃し幕府軍は敗走。 石州口では長州参謀の大村益次郎が指揮して浜田藩領(現:島根県浜田市)に進撃し、7月18日に浜田城を占領します。 pic.twitter.com/qgFXroSjhz

2018-07-26 01:27:06
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長州軍は優秀な大砲や小銃で武装し、戦術にも優れ 農兵隊が補給などにも活躍した為、幕府・諸藩連合軍は敗退しました。 この戦闘中の1866年8月29日(慶応2年7月20日)14代将軍家茂が病死した為、幕府軍は停戦を宣言します。 pic.twitter.com/ZTTVa8rS2T

2018-07-26 01:27:09
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大島口・芸州口・石州口の3カ所で極めて短期間のうちに幕府軍を撃破し、残りの小倉口も高みから徹底抗戦し続けていた肥後藩士たちの戦意喪失で、 長州側の勝利が確定します。この結果、浜田藩(幕府領・石見銀山含む)と小倉藩の主要部分は1869年(明治2年)の版籍奉還まで長州藩の属領となりました。

2018-08-01 23:55:59
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明治新政府にあっては、右大臣の岩倉具視からもその政治的識見の高さを買われ、ただ1人総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となりました。 太政官制度の改革後、小五郎は外国事務掛・参与・参議・文部卿などを兼務していきます。 pic.twitter.com/TViFhHe0rA

2018-08-01 23:55:59
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1868年(明治元年)以来、小五郎は数々の開明的な建言と政策実行を率先して行い続けます。五箇条の御誓文、封建的風習の廃止、版籍奉還・廃藩置県、 人材優先主義、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実、法治主義の確立などを提言し、明治政府に実施させました。

2018-08-01 23:56:00
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戊辰戦争終了の1868年(明治2年)頃には「木戸孝允」と改名。1868年4月6日(慶応4年3月14日)に布告された五箇条の御誓文で 木戸は福岡孝弟の当初案から、第一条の「列侯会議を興し」を「廣ク會議ヲ興シ(広く会議を起こし)」に改め、 pic.twitter.com/af7ofYtgEr

2018-08-01 23:56:00
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第四条「舊來ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ(旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし)」を新たに挿入させました。 その他には、福岡案の「人心をして倦まざしむるを要す」(第3条)という言葉遣いをより洗練された表現「人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」に修正 pic.twitter.com/LHzTV9qRcw

2018-08-01 23:56:01
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(ただし、前半の「官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ケ」という表現は福岡孝弟独自の表現をそのまま尊重しています) 「知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ」を最後の第五条に持って来て「日本人は世界人となって、大いに国民的基盤を整備しなければならない」

2018-08-01 23:56:03
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という明治維新の最重要課題を国民全員に印象付ける事に留意する。などの修正を施しています。 封建制の廃止と郡県制による中央集権の必要性を認識する木戸は、まだ戊辰戦争の最中である1868年(明治元年)三条実美、岩倉具視に版籍奉還の建白書を提出します。 pic.twitter.com/ne5Tb63Jx0

2018-08-01 23:56:03
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しかし、三条も岩倉も時期尚早としてこの時点では賛成しませんでした。同年11月2日(9月18日)木戸は大久保利通と極秘裏に会談し、 版籍奉還の実施について大久保と薩摩藩の協力を要請、大久保は「一緒尽力」を承諾します。さらに木戸は山内容堂とも会談して土佐藩の同意を取り付け、 pic.twitter.com/SHkInWqRGR

2018-08-01 23:56:04
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大久保の奔走により薩摩藩も同意、これに佐賀藩も同調し、1869年3月2日(明治2年1月20日)薩長土肥四藩の藩主連署による「版籍奉還の上表」が提出されその後、大半の諸藩が同様に版籍奉還の上表を提出しました。 この時点では、旧藩主がそのまま知藩事として任命された形となり、 pic.twitter.com/k9MqbkyWFa

2018-08-01 23:56:05
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木戸の念願である郡県制の実現は廃藩置県を待たなければなりませんでした。また、当初の廟議案では知藩事は世襲とする旨の文案でしたが、木戸はこれに反対し「世襲」の2字は削除されました。

2018-08-01 23:56:06
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版籍奉還においては一致協力した木戸と大久保でしたが、1869年(明治2年)になると両者は政治的路線の違いで対立します。 大村益次郎、伊藤博文、井上馨、大隈重信ら開化派の官僚を登用して、兵制改革や官制改革など封建制の解体を目指す木戸に対し、 pic.twitter.com/nFuoINrZZp

2018-08-01 23:56:06
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大久保は副島種臣らと共に保守的な慎重論を唱えました。両派は兵制改革において対立し、徴兵制による国民皆兵を唱える大村に対して 薩長を中心にした士族兵の必要性を唱える大久保が反発。結果的には、大村と木戸はこの論争に敗れ、薩長土三藩による御親兵が設置されました。 pic.twitter.com/8ssmpDRnHM

2018-08-01 23:56:07
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