乙巳の変~蘇我宗家の滅亡。

駄文を適当にまとめました。
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しかし上宮王家を滅ぼした蘇我氏宗家も山背王兄王の縊死から二年後、乙巳の変で突然滅んでしまうのである。 pic.twitter.com/MGAHe2kTlG

2019-01-10 19:46:04
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644年、絶大な権力を持った蘇我氏は甘樫丘に豪邸を築いた。蘇我蝦夷の邸宅を上の宮門、蘇我入鹿の邸宅を谷の宮門と呼んだ。さらに蘇我入鹿は自身の子供達を皇子と呼ばせ、天皇家より凌ぐ権威がある事を人々に見せつけた。 pic.twitter.com/xZFwUXEcLm

2019-01-10 20:08:54
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644年1月1日、飛鳥寺のケヤキの下で蹴鞠大会が催された。参加者の中大兄皇子の靴がはずみで飛んだ。その靴を中臣鎌足という人物がひざまずき、靴を皇子に返した。それ以来2人は意気投合した。 pic.twitter.com/Ddc44ou68M

2019-01-10 21:09:15
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談山神社。645年5月、飛鳥寺で意気投合した中臣鎌足と中大兄皇子は飛鳥宮から南にある多武峰で蘇我入鹿を暗殺する計画を密かに計画した。「談山」という名前は彼らが談合を行った山、ということに由来する。 pic.twitter.com/FRLGnmQ3JH

2019-01-10 21:25:04
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伝飛鳥板蓋宮跡。645年6月12日は百済、新羅、高句麗の朝鮮の三国の使者が板蓋宮の大極殿で皇極天皇の前で上表文を読み上げる重要な儀式の日だった。 pic.twitter.com/zaRdPWz7et

2019-01-10 22:55:00
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大臣の蘇我入鹿も出席した。大事な儀式だったので日夜帯刀していた剣を外していた。そして蘇我倉山田石川麻呂という蘇我一族の者が皇極天皇の前で朝鮮三国の上表文を読み始めた。 pic.twitter.com/aH5OMgXDON

2019-01-10 23:08:41
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上表文を読んでいる蘇我倉山田石川麻呂は震えており汗をかいていた。蘇我入鹿は不審に思い「何故震えているのか。」と聞いた。倉山田石川麻呂は「帝の御前だからです。」と返答した。 pic.twitter.com/UVTHpGxI5J

2019-01-10 23:16:13
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大極殿の柱の影から中大兄皇子が剣を持ち掛け声と共に踊り出し、不意を突いて蘇我入鹿の頭から肩の間を斬りつけた。暗殺者の役回りだった佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田の2人も共に柱から踊り出てきた。 pic.twitter.com/4Rtk6TxvqB

2019-01-10 23:33:27
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不意を疲れた蘇我入鹿は起き上がろうとすると佐伯子麻呂が入鹿の片足を斬りつけた。斬りつけられて転倒した蘇我入鹿は皇極天皇の御座の前に叩頭してこのように発言した。 pic.twitter.com/RTRXk86uVr

2019-01-10 23:43:31
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「私にいったい何の罪があるのか、ご推察のほどを。」蘇我入鹿は皇極天皇の前で無実を主張したのだ。皇極天皇は「一体何が起きているのか」と中大兄皇子に問うた。 pic.twitter.com/W0p0Lvo1PD

2019-01-10 23:50:44
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中大兄皇子は「蘇我入鹿は皇族を滅ぼして帝位を簒奪しようてしています。」と答えた。それを聞いた皇極天皇はすぐに殿中へ退いた。 pic.twitter.com/NwsRARv4QW

2019-01-10 23:55:51
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皇極天皇に見捨てられた蘇我入鹿は佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に斬り殺された。蘇我入鹿の遺体は大雨で水浸しの庭に打ち捨てられた。雨水で濡れた遺体に障子を覆い被せられた。 pic.twitter.com/NFkI2aULFH

2019-01-11 00:06:23
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蘇我入鹿首塚。飛鳥板蓋宮で暗殺者によって跳ねられた蘇我入鹿の首がこの場所まで飛んだという。しかし蘇我入鹿の首が跳ねられたという話は正史には存在しない。 pic.twitter.com/676CVGZwjI

2019-01-11 00:18:23
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陰謀を知らない古人大兄皇子は「韓人が蘇我入鹿を殺した」と言いながら大極殿から逃げた。中大兄皇子はその後、飛鳥寺に入り蘇我蝦夷との武力衝突に備えた。 pic.twitter.com/toXPodYb3j

2019-01-11 08:13:46
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645年6月12日同日、大極殿で起きた大事件に対して騒然としていた蘇我蝦夷の邸宅に息子、蘇我入鹿の遺体が中大兄皇子から届けられた。 pic.twitter.com/OSX5e9UfVS

2019-01-11 12:16:17
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645年6月13日、息子入鹿の遺体を見た蘇我蝦夷は中大兄皇子と戦うことを諦め、邸宅に火を放ち自害して果てた。 pic.twitter.com/SwXtgvDr9T

2019-01-11 12:21:59
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甘樫丘東麗遺跡。甘樫丘の麗に7世紀頃の石垣と建物跡が確認された遺跡であるという。なんでも焼けた建物の具材も出土したという。 pic.twitter.com/R2QaCsKYw7

2019-01-11 12:31:46
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蘇我蝦夷の邸宅は蘇我馬子と聖徳太子が編纂した歴史書「天皇記」と共に燃えた。同じく邸宅にあった歴史書「国記」は船恵尺という人物が炎上する蝦夷の邸宅に入り、取り出すことに成功したという。 pic.twitter.com/dNapUP3PAm

2019-01-11 12:41:08
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強力な権威を誇った蘇我蝦夷は自害し、自身の邸宅と蘇我入鹿の遺体と共に灰となった。そして千年以上の月日を経て、邸宅のあった場所は草木が生い茂り昔の面影はない。 pic.twitter.com/YL3xz54PGJ

2019-01-11 20:15:24
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菖蒲池古墳。甘樫丘の南に位置する方墳で、被葬者を乙巳の変で殺された蘇我入鹿の「小陵」とする説のある古墳である。 pic.twitter.com/V1ZfR7NTlG

2019-01-11 21:59:39
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蘇我蝦夷と入鹿は自らの墓を「大陵」「小陵」と称した。菖蒲池古墳を入鹿の「小陵」とすると、蝦夷の「大陵」は菖蒲池古墳より少し南に存在したとされる現存しない「小山田古墳」とするのだ。 pic.twitter.com/zlLAaOd2IO

2019-01-11 22:11:15
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入鹿神社。日本で唯一、逆臣の蘇我入鹿を祭神とする神社である。乙巳の変で蘇我入鹿は首を跳ねられ、この周辺まで飛ばされた入鹿の首を祀った事を起源とする。 pic.twitter.com/ULOuBnOs4P

2019-01-11 22:23:52
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甲神社。この吉野郡に鎮座する神社はかつて「入鹿大明神」と呼ばれていたという。「入鹿」とは乙巳の変で暗殺された蘇我入鹿のことであり、この神社は蘇我入鹿の甲と鎧を神宝にしているという。 pic.twitter.com/Ar1kBOsLcn

2020-02-07 22:43:10
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乙巳の変で蘇我宗家を滅ぼし権力を手にした中大兄皇子は今度は親族や功臣の粛清を始める。逆臣を滅ぼしたからといって平和な時代は訪れなかったのだ。 pic.twitter.com/vVihgrq4E0

2019-01-12 18:26:54
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