「毛利視点」で見ないと、関ヶ原の真実は分からない!? ~石田三成は「いつの間にか責任者にされてた」のかも…
@1059kanri 後年幕府は捏造された話を先例としたのか、第一次長州征伐の折に長州側の交渉窓口に指名されたのは、岩国藩の吉川経幹でしたね。
2019-01-20 12:27:42@1059kanri 御家のためとはいえ後年になってよくやるなあそんなこと 後に偽造がばれたらそれこそ繕いようのないほどお家の恥になるとは思わんかったんかな・・・
2019-01-20 12:32:54@seishinouya その辺りこちらに詳しいですよ!南宮山毛利軍の「先陣」安国寺恵瓊の部隊で、恵瓊も毛利軍の不戦を黙認していたのではないかというショッキングな内容も シリーズ・織豊大名の研究 第4巻 吉川広家 ebisukosyo.co.jp/item/289/
2019-01-20 12:42:19@ituki214 吉川が不遇と言うか、毛利本家から警戒されたのは、江戸初期に毛利秀元の長府毛利家と組んで本家からの独立運動をしたためですね。吉川広家自体は関ヶ原後は毛利家の事実上の宰相と言っていいくらい重く用いられていました。
2019-01-20 12:45:17@1059kanri おお、情報ありがとうございます、恵瓊も毛利軍の不戦を黙認も結構驚くべき情報ですね、つくづく関ヶ原はイメージ先行で最新学説が広まらない傾向なのが残念ですね、これも司馬遼太郎の関ヶ原のイメージが強すぎるんですかね、TBSで作られたドラマ版が名作だったためかもしれませんが
2019-01-20 12:50:56@1059kanri なるほど、そんなことがあったのですね。しかし東と西の守りの要が組んで独立騒動とは、減封後の長州藩は大変だったのだと偲ばれます
2019-01-20 12:51:32@ituki214 輝元のあとを継いだ毛利秀就が、相当クセのある人で…。息子の綱広に至っては重臣から押し込めくらって強制隠居となり、毛利家は一時的に幕府管理になったりします。
2019-01-20 12:59:59@1059kanri 関ヶ原の合戦図は旧軍の参謀本部が作ったものですから、従来の関ヶ原像が全て司馬遼太郎の創作、彼が悪い、とは言えないように思います。となると、どこから歴史の差し替えが行われ、その意図は何だったのか。これはミステリー。
2019-01-20 13:04:03@1059kanri 毛利が当初は徳川と対決路線で統一されて途中で路線変更が確定的なら、次は石田の実際の関ヶ原前後での西軍内の権限と、なぜ宇喜多や他の奉行以上に一番の尻尾切りになったか、関ヶ原前からの徳川石田間の対立史観は本当なのか、その辺が調査されるべきなんでしょね
2019-01-20 13:08:07@1059kanri このパターンで改易までいってしまった家が多々ある中、うまく幕府の介入を受け入れて軟着陸させた辺り、大国毛利の人材の厚さを感じます。実力至上主義から権威主義への過渡期ですので、どこも苦労していたのですね
2019-01-20 13:13:52@1059kanri その辺の研究成果を待ちたいですが、識者や歴史好きの間では覆った結論の方が広まっても、お茶の間レベルに浸透するには長い時間がかかりそうですね、ただまあ石田三成も戦前なんかは君側の奸だったのが、今は司馬遼太郎の小説などで豊臣家の忠臣という見方も広まったのでいつか浸透するでしょうね
2019-01-20 13:20:24この辺の吉川家のあれそれは事実だとは思うのだけど、認識として「後年の吉川家の捏造」が「吉川広家が捏造をした」と半ば故意に混同されてる気がするんだよなぁ
2019-01-20 13:37:17@yougoha 吉川家の本家からの独立運動やそれに関連した家格上昇運動は早くても寛永7年からで、寛永2年に死んだ吉川広家には全く関わりがありませんね。関係ないですが関ヶ原の「宰相殿の空弁当」も、吉川広家が弁当食っていたと言われがちで。
2019-01-20 13:48:58