織田信長が仏教論争を裁いた?「安土宗論」資料集〜「雑記録」さんが現代語訳

「安土宗論」の全体的な概要はとりあえずウィキペディア参照のこと。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%AE%97%E8%AB%96  この前、呉座勇一・井沢元彦両氏の論争の議題となっていたので、にわかに注目が集まりましたが、古い史料の現代語紹介を行っている雑記録@zakkiroku さん(https://togetter.com/li/1273972などのお仕事あり)が、1月からこの史料の現代語訳をなさっています。他のまとめなどを読むときの良い参考にもなるのではないかと思います
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雑記録 @zakkiroku

「なぜ返答してはならないのだ」と憤っていた時に、再び大居士が云う、「お前は『法華経』を知らないのか。【止みなん止みなん説くべからず(法華一乗の法を説くように請う舎利弗に対して、釈迦が説くまいと答えた言葉)】 【我が法は妙にして思い難し(『妙』は我々凡夫には至難不可思議の境涯である)】

2019-04-19 23:30:27
雑記録 @zakkiroku

心に思い浮かべても『妙』は言葉にし難いものであるので、どのように説明しようか。どのように言おうか」 又、この時に日蓮宗側の書記が「『妙』には四つの『妙』が存在する。どちらの『妙』か」と書き出した。又、この時に大居士が批判して云う、「四つの『妙』と分けるのはどうしてか。

2019-04-20 00:01:36
雑記録 @zakkiroku

裁定で言及された『妙』ならば、十妙、二十妙、六十妙と存在し、合計で百二十妙が存在する。これは絶対の真理としての『妙』なので、『心行所滅(心の働きを超えた境地)』の法である」と言った。 日蓮宗徒たちは閉口した。貞安が座席から立ち上がり、「法華の『妙』よ。お前は知らないのか」と言った。

2019-04-20 10:19:19
雑記録 @zakkiroku

そして、(浄土宗側が)日光聖人やその他の者どもの袈裟衣装を剥ぎ取ったのである。この時の判定者は、南禅寺の住持である秀長老と十界因果大居士の二名だけであった。その他に二人いたが、一人は和州法隆寺の仙學坊で、法相宗の学僧である。大居士は(仙學坊が)『維摩経』を学習する時の師匠であった。

2019-04-20 10:38:07
雑記録 @zakkiroku

河内将芳「第二章 安土宗論再見-信長と京都法華宗寺院-」(『中世京都の都市と宗教』思文閣出版 2006に所収)を読む。 信長と宗教勢力との関係は、本来「世俗権力による寺社の保護」という秩序に基づく関係であったが、元亀争乱における宗教勢力との対立より、信長の寺社観・仏法観は大きく変容。 pic.twitter.com/w98rWSqAxv

2019-04-20 13:18:58
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雑記録 @zakkiroku

安土宗論に関する二点の伏線を指摘。 第一の伏線は、公方や天皇に対して信長の事を讒奏した法華宗信者・竹内季治の処刑から、法華宗への敵対意識を抱いた可能性。 第二の伏線は、京中の檀徒による莫大な募財をとりまとめる程の十六本山会合による「都市民衆の把握や編成」(P.255)に危機感を抱いた事。

2019-04-20 13:19:15
雑記録 @zakkiroku

宗論後に要求された莫大な礼金の内百枚分を、十六本山会合は堺の末寺とその檀徒から勧進によって集めようとした。それによって、堺の末寺から京都の本山寺院への一方的な助成(本山・末寺制度の萌芽)や檀徒の所属を各寺院に固定化しようとする動きなどか現れ、結果として近世的社会の先取りが行われた。

2019-04-20 13:29:13
雑記録 @zakkiroku

又、もう一人は秀長老に付き添う僧侶である西堂房である。しかしながら、秀長老は「私は年老いて耳が遠くなっているので、書記を置いて書き出させて、紙面で判定しよう」と黙然としていたが、余りにも馬鹿馬鹿しい様子を見て、大居士一人が判定したのである。天道疑うべからずとはこのような事である。

2019-04-20 20:51:22
雑記録 @zakkiroku

これは信長将軍の深い思惑によって、そのように判定したのである。全くもって私的な不義を働いたのではない。その場にいた者たちは皆知るべきである知るべきである。織田家からの御名代は織田七兵衛殿である。そして、御奉行の三人は有名な者たちである。

2019-04-20 21:27:02
雑記録 @zakkiroku

時は天正七年五月二十七日巳刻から午刻である。 筆者因果 (花押)

2019-04-20 21:27:29
雑記録 @zakkiroku

『因果居士自筆安土問答』を読了。 安土宗論に判者として参加した因果居士が記録したと伝わる書物である。詳細不明な人物であり、『甫庵信長記』では「八宗兼学したる鳥髪(有髪)の僧」として記載有り。 諸本としては、越後三島郡新野氏所蔵の記録と前田育徳会所蔵の記録が存在するという。

2019-04-20 22:07:34
雑記録 @zakkiroku

因果居士自体が詳細不明な人物である点や安土宗論で重要な役割を果たした事を文中で非常に強調している点を踏まえると、個人的には安易には信用出来ないという印象。 太田牛一『安土日記』や久遠院日淵『於江州安土法華宗浄土宗問答略記』と比較検討する中で宗論の推移を見直してみたい。

2019-04-20 22:25:24
雑記録 @zakkiroku

原文では「是ハ信長将軍之御内義深キニ依テ左様ノ批判ヲスル也」と記述されている。 「御内義」という言葉を「深い思惑」と訳してみたが、これは宗論の勝敗に信長が直接関与したと考えるべきか、因果居士が信長の意向を「忖度」したと考えるべきか。色々と考える事ができるのではないかと思った。

2019-04-21 09:08:52
雑記録 @zakkiroku

『駿府記』には、慶長17(1612)年7月30日に、徳川家康が駿府にて京都からやって来た因果居士と面会している。具体的な話の内容は不明であるが、この時点で、因果居士は自分自身の年齢を88歳と回答している。この年齢は、「小堀宗甫年表」に記載されている因果居士の没年から逆算したものと一致する。 pic.twitter.com/rWzJmQhZgq

2019-04-21 12:42:11
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雑記録 @zakkiroku

河内将芳「第一章 山門延暦寺焼討再考序説」(『中世京都の都市と宗教』思文閣出版 2006に所収)を読む。 延暦寺焼討の要因を、信長が宇佐山城を築いて山門大衆の影響下にある今道越や坂本を支配しようとした事に対する山門側の反発心に求める視点は、流通や都市を巡る勢力間の対立として興味深い。 pic.twitter.com/s0y3VbX7MV

2019-04-21 22:42:58
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雑記録 @zakkiroku

信長と宗教勢力との対立に関して、信長の無信心に起因するという旧来の考え方から、政治的・経済的要因等を含む複雑な要因同士が絡み合った上で対立が生じたという考え方に移行する事によって、延暦寺焼討だけではなく石山合戦や安土宗論を中近世移行期にどのように位置付けていくのかを考え直したい。

2019-04-22 00:55:03
雑記録 @zakkiroku

河内将芳「戦国末期畿内における一法華宗僧の動向-日珖『己行記』を中心に-」(『戦国史研究』第36号所収)を読む。 日珖が高屋城を拠点に三好実休の陣僧のような活動を行なった事や「阿波の皆法華政策」に関与して、「阿州事、於高座致披露、弥打伏スル也」という積極的な折伏を行なった事を指摘。 pic.twitter.com/LFdmfwVDIN

2019-04-22 01:58:05
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