結城秀康の病歴と動向について。

徳川家康の次男秀康の病は梅毒とされているが、実際の症状はどうであったか、また、大名になってから死没するまでの動きも追ってみた。
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アリノリ @a_ri_no_ri

知行宛行状から、秀康は慶長5年7月までに結城着。石田三成らの挙兵が発覚したため、家康は秀康に対上杉を任せる。この際、秀康が決戦に参加したいと主張するのを、家康が説得したような話があるが、関ヶ原で決戦が行われるのも全く分からない段階である。まず、創作であろう。

2019-07-06 16:20:20
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康に対上杉を任せるのは、「結城」という領地の位置からして妥当である。徳川の本拠地である関東と、真田討伐を任された弟秀忠の背後を守る必要がある。決して軽い役目ではない。秀康を信頼しているからこその、対上杉であろう。秀康は結城を養父に任せ、蒲生秀行の宇都宮城に入ったようだ。

2019-07-06 16:20:34
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康はなかなか動かない伊達政宗をせっつきながらも、自分は戦わないまま対上杉の役目を無事に終える。家康は秀康の働きを評価して、越前68万石を与える。秀康は慶長6年(1601年)に上杉を伴って?上洛し、8月に越前入りする。それ以前に秀康は目を患ったようで、秀忠が心配する書状がある

2019-07-06 16:20:48
アリノリ @a_ri_no_ri

8月14日の秀忠書状「御目いかゝ御座候哉、千万無御心元存候、不及申候へとも、無御油断御養生専一候=目の具合はいかがでしょうか?とても心配しております。わざわざ申し上げるには及ばないでしょうが、油断なく養生に専念してください」と秀忠はかなり気遣っている。

2019-07-06 16:21:03
アリノリ @a_ri_no_ri

秀忠が秀康の目の患いを知っているのは、上杉を伴って?上洛する秀康と途中で会っているからのようだ。同年の4月18日、江戸に戻る途中で秀忠が出した書状に「懸御目可申伸候=お会いしたいです」とある。兄弟で会って話をして、戦やその後の情報を共有する必要もあっただろう。

2019-07-06 16:21:21
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康は江戸or途上で秀忠に会ってから、伏見を経由して越前に行ったようだ。秀康と秀忠の異母兄弟は、できるだけ会える機会を逃さないようにしている。このとき、秀康と秀忠がわざわざ会っているのは、情報交換&確認の必要性があったのと、秀康の越前入りが決まっていたからであろう。

2019-07-06 16:21:42
アリノリ @a_ri_no_ri

結城から越前に移ったら、会える機会は間違いなく減る。それもあって、秀忠は秀康に「お会いしたいです」と伝えたに違いない。秀康の目の患いは間もなく治ったらしく、この後、目の話題は出ない。

2019-07-06 16:21:56
アリノリ @a_ri_no_ri

越前入りが決まっていたから会ったという推測を補強する、秀忠の書状(断片)がある。年月日全て不明だが「如仰越其以後者不能面拝、所存之外候=おっしゃられる通り、越前に行かれてから会うことができなくなったのは、思ってもいなかったことです」と記している。

2019-07-06 16:22:09
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長6年〜7年にかけて秀康は領国経営に専念するが、慶長7年(1602年)2月に家康が伏見へ上り、5月までに秀康も上洛。黒印状から、9月までには越前に帰ったようだ。家康は10月に江戸に戻る。家康は長期滞在であるが、秀康は越前に移って間もないからか、この時期は秀吉時代より滞在が短い。

2019-07-06 16:22:22
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長8年(1603年)2月に家康が将軍に就任。秀康も3月前までに上洛し、父親と一緒に参内(=天皇の御所に参上)している。秀康は5月までに越前に戻り、家康は10月に下向。翌年も家康は上洛するが、この頃から、秀康の体調が悪くなっていく。これも情報源は秀忠の書状である。

2019-07-06 16:22:36
アリノリ @a_ri_no_ri

「先書如申入候、御煩無御心元存、重而以使者申入候、如何御さ候哉、能々養生之義専一候=先にも書いて申し入れました。ご病気のことを心配しています。また使者を送って申します。具合はいかがでしょうか?よくよく養生に専念してください」慶長9年カ?の2月の書状で秀康の病が分かる。

2019-07-06 16:22:50
アリノリ @a_ri_no_ri

秀忠は秀康の病が心配だったようで、書状の内容から、これが2度目以上の手紙であることが分かる。この年も3月に家康は上洛する。『秀康年譜』によれば、秀忠は兄に治っても江戸には来ないでもいいですと伝えたようだが、秀康は3月に江戸に向かい、6月1日前に江戸から上洛したようだ。

2019-07-06 16:23:14
アリノリ @a_ri_no_ri

秀忠は6月1日、17日と続けて書状を出し、兄の病状を心配している。秀康の具合は良くならなかったようで、同じく慶長9年カ?とされる書状に、手病ニ付而、以印判申入候=手病のため、印判で文書を伝えます」と冒頭に記して、黒印を用いている。病で会えなかったことを詫びてもいる。

2019-07-06 16:23:30
アリノリ @a_ri_no_ri

当時、礼儀が必要な相手への手紙には花押(=サイン)をした。この花押は大名が自分で書くものである。秀康は花押を書くべき書状であっても、腕が痛くて書けなかった。そのため、冒頭に花押が書けないので、刻印(=ハンコ)で失礼します、と記した書状が多数も残っている。

2019-07-06 16:23:46
アリノリ @a_ri_no_ri

病のために秀康は早く越前に戻ったらしく、同年7月1日付の伝馬手形がある。同年12月16日に太平洋側で大きな地震が起きた。秀康は秀忠に書状を送ったらしく、翌年の正月に「息災=大丈夫」との返事を秀忠が出している。この年の4月には、秀忠が将軍に就任する。

2019-07-06 16:24:01
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長10年(1605年)2月に家康と秀康が、3月に秀忠が上洛する。秀康は秀忠の将軍就任に合わせて、権中納言となる。秀忠は5月に江戸に戻り、家康は9月に下向。以後、秀康は越前に戻らず、慶長12年まで伏見に滞在する。秀康の病は良くなったり悪くなったりしたようである。

2019-07-06 16:24:15
アリノリ @a_ri_no_ri

同年6月に天皇の勅使(ちょくし)舟橋秀賢(ひでたか)が贈り物を持って訪問したときは、秀康は東福寺に遊びに出ていて留守だったのが、秀賢の日記『慶長日件録』から分かる。書状も「手病、所労(=病気)、かいな(=腕)の腫物」を理由に刻印で済ませるときと、花押の場合と両方がある。

2019-07-06 16:24:29
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長11年4月に家康が上洛し、9月まで滞在。2〜4月には回復したのか、花押書状が見られるが、日野輝資の日記『輝資卿記』によれば、5月には秀康の病治癒を祈祷する連歌の会が、開かれている。主催は連歌師の里村玄仍(げんじょう)で、日野輝資らが参加。依頼主の有無は不明。

2019-07-06 16:24:46
アリノリ @a_ri_no_ri

日野輝資(てるすけ)が、後に家康の側近になっているから、連歌の会を依頼したのは「家康」である可能性はある。当時は、病治癒や戦勝祈願のために「連歌」の集まりを催すことが度々あった。

2019-07-06 16:25:11
アリノリ @a_ri_no_ri

同年10月にまた秀忠が病を心配する書状を出す。 「所労之義無心許之間、重而申入候、如何候哉、様子承度候、能々御養生之儀専一候」=病気について心配していますので、重ねて手紙を出します。具合はいかがでしょうか?様子が知りたいです。よくよく養生に専念してください」

2019-07-06 16:25:29
アリノリ @a_ri_no_ri

「重而」とあるので、秀忠はこれ以前にも秀康の病を心配する書状を出したようだ。慶長10年の将軍就任後に、「今度者切々之向顔満足此事候」と何度も兄弟で会えて満足したと書状にあるので、このときは秀康の病もさほどヒドくなかったのだろう。秀康の病には波がある。

2019-07-06 16:25:41
アリノリ @a_ri_no_ri

具合が良いときと悪いときを繰り返しながら、秀康の病は悪化していったようだ。症状としては、「腕の腫物」「気相悪臥り入」くらいしか確認できない。腕に腫物(=できもの)があり、「気相悪」は「気分が悪い」だろう。貴族の日記には「腫物」とあるだけで、これだけでは病の判別は難しい。

2019-07-06 16:25:57
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康の病没は慶長12年閏4月である。同年2月3月付の島津家久宛、毛利秀元宛の書状の内容は到ってまともで、梅毒による脳への悪影響は窺えない。ただ、書状で会えなかったことを詫びる回数は多い。梅毒で変わってしまった見た目を気にしたのか、単純に具合が悪くて会えなかったのか、さて?

2019-07-06 16:26:11
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長12年3月までに、秀康の娘喜佐(きさ)姫と毛利輝元の息子秀就(ひでなり)との結婚が決まる。秀吉の元養子(猶子)で豊臣寄りという理由で、家康が秀康を警戒していたとの話もあるが、警戒していたら、この組み合わせは有り得ないだろう。大坂に近い伏見を秀康に任せるハズもない。

2019-07-06 16:26:24
アリノリ @a_ri_no_ri

伏見は当時の上方の「政庁」であり、ここを任された者は朝廷や西国大名とのやりとりを引き受けることになる。家康は秀忠の将軍就任と同時に秀康に伏見の留守を任せた。慶長10年から秀康の伏見滞在が始まるのは、そのためだ。だから、天皇は秀康に勅使を派遣し、家康は毛利との結婚話を進めた。

2019-07-06 16:26:40