結城秀康の病歴と動向について。

徳川家康の次男秀康の病は梅毒とされているが、実際の症状はどうであったか、また、大名になってから死没するまでの動きも追ってみた。
30
アリノリ @a_ri_no_ri

弟の秀忠が将軍として江戸にあり、庶兄の秀康が伏見にいて西国大名との繋がりを持つという体制は、室町幕府の京の将軍と鎌倉府を思い起こさせる。弟と庶兄の配置としては問題ありとしか思えないが、家康はこれを実行した。よほど、秀康を信頼していたのだろう。

2019-07-06 16:26:53
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長10年、11年には家康が半年ほど京・伏見にいて、秀康の息子忠直(ただなお)が秀忠の所にいる。とはいえ、天皇や大坂の秀頼に近い分、秀康の方が危険度が高く見えてしまう。領国の越前も京に近い。秀康がいるのは常に重要な拠点で、警戒すべき大名の配置ではない。

2019-07-06 16:27:08
アリノリ @a_ri_no_ri

家康は将来的に秀康に伏見を任せるためもあって、上洛するときは秀康を伴っていくというパターンを続けたのだろう。しかし、秀康の病が治らなかったので、伏見での活動は西国大名との書状を交わす程度に限られた。

2019-07-06 16:27:25
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康が伏見の留守を任されたことはあまり知られていないが、事実である。書状や秀康家臣の伏見番の存在から、病身ながら役目を果たそうとした姿が窺える。毛利や島津以外では、豊臣(羽柴)秀頼の家老片桐且元(かつもと)との書状のやり取りもある。

2019-07-06 16:27:41
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康は慶長9年から病となっているが、見てきた通り、容態には波があった。家康は息子の病は治ると考えていたようで、秀康→島津家久の書状により、寒い越前ではなく上方で養生するようにと伝えていたのが分かる。秀康は言われた通りに養生して、良くなったので帰国しますと家久に知らせた。

2019-07-06 16:28:00
アリノリ @a_ri_no_ri

先にあげた『当代記』の「其上虚」の「虚」が体調か精神状態かは不明であるが、秀康は慶長12年3月まで、島津や毛利に対してまともな返事を出しており、精神的におかしな状態になっているようには見えない。

2019-07-06 16:28:16
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康は慶長12年3月1日に伏見を出て越前へ帰る。病状は悪化していき、家康にも連絡されたようだ。4月28日に宮中で秀康の病治癒のための神楽が催される。25日に家康が天皇へ年頭の挨拶の使いを派遣し、例年の倍の銀200枚を贈っていることから、家康が依頼した神楽だった可能性が高い。

2019-07-06 16:28:40
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長12年閏4月8日に秀康は病没する。片桐且元が13日以前に秀頼の使いとして弔問に行き、5月には毛利輝元が焼香に訪れている。秀康は初め結城家の菩提寺である曹洞宗孝顕寺に葬られたが、家康の意向で浄土宗の浄光院に改葬される。

2019-07-06 16:28:54
アリノリ @a_ri_no_ri

家康は養父の結城朝晴に気を使いつつも、秀康を徳川一門の者、自分の息子として扱ってきた。改葬してまでそれを通し、徳川の者として秀康を葬っている。秀康の系統を徳川一門とするためにも必要だったのだろうが、結城から秀康を取り戻したかったのか?と推測するのは穿ち過ぎだろうか。

2019-07-06 16:29:12
アリノリ @a_ri_no_ri

以上が、養子に入って以降の秀康の動きと病歴である。 病歴のみを簡単に書き出すと、 天正19年(1591):病(病状不明) 慶長6年(1601):目を患う 慶長9年(1604):病(腫物) 以後、回復と悪化を繰り返しつつ、慶長12年(1607)に没。

2019-07-06 16:29:26
アリノリ @a_ri_no_ri

最後に、生まれたときからの移動をその年の「実年齢( )」込みで記す。 1574年2月8日:浜松で誕生(0歳)→1584年12月人質として大坂へ(10歳)→1587年九州出兵(13歳):初陣→1590年養子に入り、結城へ(16歳)→1590~91年葛西大崎一揆に出陣→【続】

2019-07-06 16:30:04
アリノリ @a_ri_no_ri

→1592年2月以降に伏見を経由して名護屋へ出陣(18歳)→1594年6月までに伏見(20歳)→1596年正月以降に結城へ(22歳)→同年6月までに伏見へ→1598年2月までに結城へ(24歳)→同年8月までに伏見へ→1600年7月までに結城着(26歳)【関ヶ原の戦い】→宇都宮→1601年8月に伏見へ→【続】

2019-07-06 16:30:53
アリノリ @a_ri_no_ri

→同年8月中に越前(福井県)へ(27歳)→1602年5月までに伏見へ→同年9月までに越前へ→1603年3月までに伏見へ(28歳)→同年5月までに越前へ→1604年3月に江戸へ(30歳)→同年6月江戸から伏見へ→同年7月に越前へ→1605年2月に伏見へ行き、以後、1607年まで滞在→【続】

2019-07-06 16:31:18
アリノリ @a_ri_no_ri

→1607年3月に越前へ戻り、病没(33歳)。 移動が多く、且つ、広範囲を動かされて大変なように見えるだろうが、当時の大名としては普通である。秀吉の支配領域がほぼ全国に広がったのと朝鮮出兵があった関係で、同時代の大名は広範な移動が当たり前だ。

2019-07-06 16:31:32
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康の場合は「朝鮮」まで渡っていないので、これでもまだマシな方である。秀吉は大名に大坂や京・伏見への滞在を義務付けていたため、領国へ戻る際には「許可」が必要だった。江戸幕府(家光以後)の参勤交代とは違い、1年おきという定期的な制度ではないので、移動の月日は把握しづらい。

2019-07-06 16:31:47
アリノリ @a_ri_no_ri

見ての通り、秀康の滞在期間が長いのは、結城でも越前でもない。年数だけ見た場合、切れ切れではあっても「伏見」滞在が一番長く、次いで生誕地の「浜松」だろう。結城家に入ったから「結城(茨城県)」にいるものでもないし、家康に伏見を任されたために「越前(福井県)」もさほどいないのだ。

2019-07-06 16:32:01
アリノリ @a_ri_no_ri

家康と違い、秀康の動きは貴族の日記で確認がしづらいのもあって、移動の月日が分かる方が稀だ。当人や家臣の日記が残っていれば詳細になるが、現段階ではこれ以上の年月日の絞り込みは(私には)できない。より詳しい情報を、今後の新出史料や研究に期待する。

2019-07-06 16:32:19
アリノリ @a_ri_no_ri

ここ最近、2014年に秀忠→秀康の「伏見で会いましょう」書状、2017年に秀忠→秀康の「金沢城が落雷で炎上したことを直ぐに知らせてくれてありがとうございます」書状、同年に秀康→秀忠の「(恐らく)忠直と勝姫の婚姻」に関する書状と、新発見が続いているので、情報が増える可能性は十分にある。

2019-07-06 16:32:36
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康については、以前にもまとめを作っていて、こちらと合わせて読むと秀康に関する情報が増えるので、よろしければ、どうぞ。 結城秀康は「かわいそう」か?人質時代から病没までを追ってみた。 - Togetter togetter.com/li/1249028 @togetter_jpさんから

2019-07-06 16:32:50