検証・豊臣秀次〜その死の理由は?秀吉との関係は?その力量は?
「殿下」とは「摂政・関白・将軍の敬称」だけど、甫庵『太閤記』文禄3年の記事「雍州之伏見殿下居城に御定之事」の「殿下」は秀吉だよな。
2019-08-20 21:32:26秀次様御子息を大和に入れようという太閤殿下の思惑が窺える史料の発見で話題になりましたが、実は儂も筑後・筑前に封ぜられる案がありました。 しかし、佐和山という重要拠点に置ける者は三成の他になく、中央に有能な人材もいなくなってしまうという理由で没案になりました。 優秀すぎた結果ですね
2019-08-20 21:36:28@1059kanri @suwasirou 大和郡山に何度か行き良い場所で政務の要所とも取れました。家康様から直政様へ彦根城の譲与の如く、秀吉様は大和郡山城を以て、大坂城を秀次様方々にも守らせて、豊臣家の安泰を願われたのでしょうか?身内とは滅亡と繁栄が表裏一体で、もし秀次様や秀康様方々が存命なら豊臣家は後世に残りましたか?
2019-08-20 21:47:47@UZPLgJQCEPt7k24 @suwasirou 秀次はともかく秀康は父家康や弟秀忠との関係は非常に良かったので豊臣家云々に関してはあまり関係がないかと
2019-08-20 21:50:37@zibumitunari 先日治部様のお手紙の展示があったので見てきましたが解説に 「佐和山にとどまることになったがその口調はどこか誇らしげでいっそう近江の統治に力をそそごうとしている」 って書いてました☺
2019-08-20 21:54:58@zibumitunari ここで殿が辞退せず大封の大名となり、関ヶ原で内府殿に対抗する事ができて勝つ…というif小説を読んで以来、ここで殿が石高を得ていたら……なんてついつい考えてしまいますが、でも断っちゃうのが殿らしいし、「後で後悔するかもしれないが〜」とか自分で言ってるのがまた大好きです☺️
2019-08-20 22:31:54やはり儂の息子を大和国主にするという新史料を「秀吉は最初はそこまで秀次の処分をきつくするつもりは無かった」と結論づけるだけでなく「ではなぜ実行されなかったか」「どのような背景があってこの計画が立てられたのか」「何故三男が選ばれたのか」などと探究を進めてこそだと思う
2019-08-21 00:38:31弟の秀保が死んだのに豊臣秀次が狩猟をしたのは、秀吉が愁傷無き様にと指示したからなんだな。なぜそんな指示をしたのか?秀吉と秀次に既に確執があったからという可能性が。
2019-08-21 08:34:22文禄3年3月4日の連歌百韻は秀吉の母「大政所」の三回忌にともなうものだった。にもかかわらず秀次・秀保・秀俊(秀秋)が欠席して大和郡山で能に興じていたという。「文禄三年三月四日「何衣」百韻と豊臣家の内紛」(勢田勝郭) nara-k.ac.jp/nnct-library/p…
2019-08-21 08:47:13連歌会欠席が秀吉の意に反するものだとしたら、母思いの秀吉が恨みに思うのは必然で、祖母を弔わないのなら、弟も弔うなと言いたくなるってものなのかもしれない。
2019-08-21 09:09:22例えばお拾誕生を「豊臣家の後継者の誕生でも何でもなく、形式的には、単に側室に男子が一人生まれたというに過ぎない」という解釈は正しいのかどうか。秀次秀保秀俊は羽柴一門では有るが秀吉とは父系での繋がりが無いのよね。
2019-08-21 10:28:07家父長制継承が重視された当時領袖に実子(コキュの件はさておき)が生まれるというのは規定のパラダイムが変更される正当性になり得たんじゃないかとも思えるんだな。茶々を側室と断じてるのも問題がありそうだがね。
2019-08-21 10:28:07また最近発見された書状では大和羽柴家を秀次子息に興させる秀吉の心算が有ったらしい事も指摘されているがそれは当然反映されていない。まあ連歌発句一つから論文を書き起こす発想とか着眼点は大したものかなとは思う。
2019-08-21 10:28:07一番大きな違和感は羽柴家後継という家長の専権事項に属する問題に対する秀吉の着想に秀次3人が申し合わせて反抗的態度を明らかにできるだけの強い立場が有ったかどうかやね…著者が自認する様に全体として小説的発想なのでは。
2019-08-21 10:35:21この書状の情報が伝聞情報だという説があるけど、木下吉隆は『駒井日記』の木下大膳のことで、この時期に伏見にいて孝蔵主から直接情報を得ていると考えられるので信頼できないということは無いと思われますね。
2019-08-21 11:08:49「伏見殿下様事御煩ニ」→「伏見殿下様の御殿ニ」か。これで意味が通じる。 twitter.com/UTokyo_HI/stat…
2019-08-21 12:57:48(再訂正)「木下吉隆」書状の釈文・大意を訂正しました。 hi.u-tokyo.ac.jp/news/2019/kata… pic.twitter.com/GwayJMWKKR
2019-08-21 11:34:52まあこんなん読めんわ。専門家信用するしかない。 clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/id…
2019-08-21 12:59:10『多聞院日記』見たら4/16に秀保死去の記事書いた翌17日に英俊も病気になって日記が中断しとる。その間に秀次切腹とリンクして増田長盛に郡山城が下されたことが書いてあるので、秀保→秀次若君→処刑→増田長盛という流れで解釈できそう。ただし郡山→多聞山城は結局なかったということか。
2019-08-21 20:58:18…秀次事件が動き出すまで太閤関白間の係争を匂わせる様な傍証は無く抑も太閤が権威権力を裏書する事で関白秀次が成立していたというのがこれまでの研究成果であってそれだけに何故秀次家が粛清されたのかわからんのだし今回発見の書状もその流れを再確認出来ても覆すものでは無いはずなんだが。
2019-08-21 21:29:33